小学校の運動場から子どもたちの喜々とした声が聞こえてくる。春休み中でも部活動が行われているのかと思ったが、それにしては声の質が全く違う。伸び伸びと楽しくって仕方ないという感じだ。運動場に近づいて見ると、やはり部活動ではないようで、子どもたちが思い思いにサッカーボールで遊んでいた。指導と遊びではこんなにも子どもの表情は違うのかと感心してしまった。
大学や会社や役所で、入学式、入社式、入所式が行われ、若者たちの決意に燃えた表情がテレビの画面からでも分かる。大学の入学式はともかく、入社式や入所式は社会人となった第1歩だから、緊張感も格別なのだろう。社会に出るということは働くということで、学校とは違い、自分の能力が評価され、その対価として賃金を受け取る。今、「働き方改革」が法的に実現されようとしている。
工場生産のように、機械が動いていると同じように人間も働く。けれども、機械のようには働けない職種では、成果に応じて賃金が支払われる方式が増えてきた。働く時間帯も、朝9時から夕方5時までに限らない、どの時間帯でもノルマさえ果たせばよいという。働く時間帯を選べるなら、子育てや介護や趣味などに取り組める。何かとてもよい方式のように見えるけれど、本当にそれでいいのかという疑問もある。
私が子どもの頃、人間に代わってロボットが働くようになれば、人間は余った時間で自由なことが出来ると思っていた。物品は豊かで、貧しさはどこにも存在しない。全ての人々が趣味や娯楽やスポーツを楽しみ、芸術を享受し、生き生きと人生を謳歌する。マンガもそんな未来社会を描いていた。今やマンガに描かれた社会になりつつあるのに、人々の労働時間は短縮されず、労働はいっそう濃縮されたようにきつくなっているのはどうしてなのか、不思議だ。
自由に伸び伸びと子どものようには生きることは、大人の社会では実現しないのだろうか。