我が家に「聖書の話」を伝えに来る女性がいる。もうずいぶんと長い付き合いになる。彼女が「あなたはアダムとイヴの存在を信じるか?」と聞くので、「信じる」と答えた。NHKで人類の誕生を特集していたが、人類はいろんな経過で誕生しただろう。そして誕生した人類はアダムとイヴのように欲望を持っただろう。欲望は人類の発展の原動力になったが、同時に「罪」をも創り出した。
続けて彼女は「キリストの贖罪を信じるか?」と聞くので、「それは一番大事なこと。キリストの贖罪無くしては人類は生きられない」と答えた。彼女はなるほどという顔をして、次に厳しい表情になり、「もっと勉強しましょう」と学習会への参加を勧める。聖書の出発点を認め、キリストの贖罪を信じているのに、なぜ信仰を受け入れないのかと彼女は言いたいのだろう。
聖書を読んで、キリストの言葉に納得しながら、いくら考えても信仰には至らなかった。大人になって遠藤周作氏の『キリストの誕生』を読んで、信仰は考えて得るものではないと知り、逆に信仰しなくてもいいんだと思った。キリストが言いたかったことはよく分かる。親鸞が言いたかったこともよく分かる。孔子が言ったことも理解できる。どう考えるかは私自身の領域のことだ。
私の記憶にある自殺した西部邁さんは、右派の論客でしかない。60年安保闘争の指導者がなぜ右派になったのか、知りたいという気持ちも無かった。入水自殺をニュースで知り、「彼の美学」と聞いて少し興味を持ったが、著書まで買い求めて読んでみようとは思わなかった。人にはそれぞれの役目がある。そうとしか考えられない。私の役目が何なのか、私には分からないし、分かりたいとも思わない。晴れた日に花を眺め、雨の日のアジサイもいいと思う。存在するものは全て役割があるのだろう。