友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

お葬式

2008年10月24日 19時47分59秒 | Weblog
 葬儀は身近な人たちが集まって行なわれた。参列者は少ないが故人をよく知る人ばかりだから見送りは胸が痛んだ。私たちはご近所付き合いだったから、何かと理由を設けてはお酒を飲んでいたので、その豪傑振りが一番残っている。葬儀の会場に掲げられていたいくつかの写真の中に、若い頃の写真があった。かなりハンサムで凛々しい。ゴルフがうまいことは知っていたけれど、スキーはプロ級の腕前であったらしい。

 写真をとおして故人の歴史が浮んでくる。あの時の話にはこういう背景があったのかと察しがつく。分厚いドラマを作りながら人は一生を閉じるようだ。私たちが出会う前の故人の人生を垣間見て、人の一生の重さをつくづくと感じる。けれども、あの世とやらへ行ってしまってはもう再び会うことができない。あの世に話をする人はいるし、そう信じている人もいるが、もちろんそれはそれで結構だけれど、人が亡くなり灰しか残らないのだから、この世にはいないことは確かだ。

 どんなに立派な人も、威厳のある人も、誰からも愛された人も、みんな灰になってしまう。灰になった母や父を見た時、人間はこれだけだったのかと思った。悲しいというより、今日もそう言われていたけれど、「長い間ご苦労様でした」という気持ちが湧いてきた。肉体をつかさどるいろんな分子がどのようにかはわからないが、とにかく植物も動物も何らかの方程式に導かれ、個を形成する。人間はそして文化を創り、生活を送り、人を愛し、またいくつかの分子に戻っていく。

 自分が生きた証を残したいという人もいるが、私は私が死んだら全て無くしてもらいたい。私はカミさんや子どもたちに、「死んだから、葬儀は行なわず、葬儀屋に頼んで、火葬しても骨や灰は拾わず持ち帰らないこと。墓も設けないこと」と、お願いしている。それがもっとも私らしい最後だと信じるからだ。そして私に関する一切のものを焼却してほしい。前もってできるなら、棺に詰めて一緒に燃やして欲しいが、それができなければ、後からでもよいので、痕跡を無くして欲しい。

 葬儀の最後の挨拶の途中で、喪主である娘さんのご主人は泣いてしまったが、隣で聞いていた小学校4年生のお孫さんは泣きながらもしっかりと立ち尽くしていた。そればかりか、棺を霊柩車に運び込む時は、大人たちに混じってしっかりと担いでいた。これからは自分が支えていかなくてはならないという決意の程が見えた。こんな風にして、世代は受け継がれていくのかと思った。
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