友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

理想の女なの?

2008年02月25日 23時07分34秒 | Weblog
 新潮文庫で川端康成の『眠れる美女』を読んで、ビックリした。そこで、この文庫に載っていた『片腕』と『散りぬるを』も読んでみた。若い頃は日本の文学作品に余り興味がなかったので、日本の小説をよく知らない。私が一番興味を持ったのは高橋和巳で、「おおこれぞ文学!」と思って読んだ。大江健三郎も初めの頃の作品は読んだが、光君が生まれて、大江作品は変わっていったように思う。それで興味がなくなった。柴田翔や三田誠や連城三紀彦も1冊は読んだが、その後は興味を引くものがなかった。

 川端康成がどうしてノーベル文学賞をもらったのか、私は知らないが、東洋の美学を評価されたというようなことを誰かが言っていた。そんなこともあって、『眠れる美女』だけでなく他の作品も読んでみようと思ったのだ。解説を三島由紀夫が書いているが、その解説によればこの3作品は川端自身が編まれたもののようだ。『眠れる美女』は昭和35年から36年に雑誌「新潮」に連載されたものであり、『片腕』は昭和38年から39年に同じく「新潮」に連載されたものだ。ところが『散りぬるを』は昭和8年から9年に掲載されている、いわば戦前の作品である。

 解説で三島が述べているように、「そこには一脈相通ずる特色を(川端が)見出されたからにちがいない。『散りぬるを』は、実際、眠っている間何もしらずに殺された二人の女の殺人事件を扱っているという題材的類縁たるに止まらず、小説家という『無期懲役人』の業と、現実への美しい関わり合いの不可能とをテーマにしている点で、前2編の解説的な役割をも果たしているのである」。なるほど、3編はどこか猟奇的で、死臭が漂うような「怖い」ものがある。そして性的な行為は全く描かれていないのに、凄く性的だと思う。

 『眠れる美女』には6人の娘が描かれている。6人ともどうやら裸で眠ったままなのだが、描写のほとんどが女たちの肩から指先までに注がれている。一人ひとり回りくどいくらい丁寧に描かれているのだ。次に布団から出ている手、そして首、顔、髪が事細かに書き込まれている。それでいて、どんな女なのかを想像させるに十分なほどだから、やはり作家の力量というものなのだろう。ただ眠っているだけの女を老人たちはじっとを見つめ、そっと触り、そして隣で眠りに着く、ただそれだけの話である。60歳代となった川端が求めた究極の男と女の関係なのだろうか。

 『片腕』はもっと気味が悪いが、ファンタジーというべきかもしれないし、未来小説的ともいうべきかもしれない。好きな女の片腕をもらってきて、片腕と添い寝をする話である。腕と会話をするに至っては奇想天外といえるとともに、やはり猟奇的だ。ここでも腕の描写が細かく続く。まるで、女体そのものを描いているように。『散りぬるを』は川端が34歳か35歳のときの作品だ。殺人事件をテーマにしながら、女、それも理想的な女を描こうとする意欲が充分に伝わってくる。

 そうか、川端康成は一貫して理想的な女とはどういうものかを描きたかったのか、そんな気がした。けれども、小説の女はどれもこれもほとんど物言わぬ人である。ほとんど物言わぬ女だから理想的なのか、言わぬといえどもそこかしこに女の品性のようなものが見えるから、そこから判断せよということなのかしら。西洋の文化人は川端の作品のどこに東洋の美学を感じたのだろうか。私には、これ以上川端康成の作品を読んでみたいと気持ちが湧き上がってこないけれど、これは読み方が足りないからなのか。不思議な思いに絡められている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3度目の60歳の集い | トップ | デートDV »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事