友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

結婚記念日

2007年11月23日 22時07分43秒 | Weblog
 明日は結婚記念日という前の晩、男は妻に「明日はどういう予定になっている?」と聞いた。妻は「特に何もないわよ」と答える。「じゃー、TOKIにでも行こうか」と男が言うと妻は「何しに行くの?」と聞き返す。男は自分の意思が全く伝わらないので、「エッ!?まあいいか、鉢の土の入れ替えも済んでいないから、明日はチューリップのために頑張るか」と言う。しばらくして妻は気付いて笑いながら言う。「それって、二人で出かけようということ」。「ああ、でもまあーいいよ。まだ鉢の土の入れ替えができていないし」と男も笑って答える。

 これが、結婚したばかりの男女であれば、いや結婚する前の男女ならばさらに、以心伝心というところなのだろうが、長い年月が経つと逆にキチンと言わないと伝わらないから不思議だ。相手が何を求め、何に関心があり、今どうしたいのか、恋人同士ならアンテナの感度はとても高いのに、長い年月一緒に暮らしていると、どうも鈍くなるような気がする。いつまでも恋人同士の時のような緊張感など持っていたのでは疲れてしまうと言われそうだ。たぶん、私自身も惰性の中に心地よさを感じているはずだ。

 男と女は不思議だ。不思議だから、小説になり映画になり芝居になる。100組の男女がいれば100組の恋愛がある。私の友人は「こんなにたくさんの人間がいるのに、組み合わせは1つというのは間違いではないか」といかにも説得力のある言い方をする。そうであっても、人間の歴史は複数の組み合わせを禁じてきた。古代ユダヤでモーゼは十戒を示し、その中で「姦淫するなかれ」と説いている。説かなくてはならないということは、そうではない人々がいたということでもある。日本人は性におおらかであったが、封建制度がしっかりと確立した江戸時代には密通は打ち首であった。

 それで、人は生涯ただ一人を守り通してきたかといえば、それができなかったようで、前にも言った小説や映画や芝居の題材になった。純愛や非恋であるが、それは世間の道徳に反していると言ってもよいだろう。男でも権力や財力を持つものは、複数の女性を手に入れているし、また女であっても同じだった。

 中日新聞に寄稿していた佐藤真由美さんが『乙女心注入サプリ』という短歌とエッセイの本を出した。彼女の短歌は俵万智さんの作風と似ているから、わかりやすい。
「約束は 忘れて好きな 夢見たらいい 膝まくらしてあげるから」
「無理すれば 週末デート できるのに もう無理しない自分に気づく」
「髪の毛を 触れられるのが好きだとも あなたを好きとも伝えなかった」
「愛だけが 孤独を癒す 愛ゆえに淋しさを知るのと同様に」

 斉藤茂吉は53歳で、24歳の長井ふさ子と恋に落ちた。63歳の私たちには恋は無理なのかな?
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