友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

恋はそんな風に出来なかった

2011年07月27日 19時17分59秒 | Weblog
 中学時代からの友だち3人で久しぶりに会って飲んだ時、ブログの話になった。私ともうひとりは毎日ブログを更新しているので、残るひとりに「お前もやらないか」と誘ってみた。「そんなものはお前らの自己満足にすぎん」と答えが帰って来た。10代のころから変わらない奴だ。クラス会をやるぞと言えば、「なんでそんな昔話などしなくてはならんのだ。何時までも過去にこだわる奴は馬鹿だ」などと、ひどいことを平気で言う。ズバズバと言い切るクセは治らないものだと感心する。

 もうひとりが「そう言い切ることも逆に言えば自己満足だろう」と言い当てるが、「それがどうした?」と開き直る。人間は皆「自己満足」を求めて生きているけれど、何でも「それは自己満足だ」と言い切ってしまっては、次の会話が成り立たない。「ブログで何をしているんだ?」と聞いてくれれば、「日記を公開しているのさ」と続き、「よくそんな恥ずかしいことをしているな」と批判され、「いや、確かに不特定多数の人が見ることが出来るけれど、俺たちにとっては昔流行った交換日記のようなものだ」「まあ、俺には一方的な手紙ってところだな」と話を続けていくことができる。

 彼自身も極めて身勝手に自己満足的に生きて来たはずだ。高校生の時、人の都合も聞かずによく呼び出されて話を聞くことがあった。1年下の女の子が好きになり、どうしたらいいと相談しておきながら、彼女の家に一緒に行ってくれというものだった。周りの友人たちにはとても気を遣う優しい性格なのに、口ではイヤミを言ってしまうキツイところがあった。こうと決めてしまうと周りの言うことを聞かない頑固なところは今も少しも変わらない。どちらか言えば、会社人間でなくなったせいかますますその傾向は強くなっている。それでも「お前らは馬鹿か」と非難しておきながら、会話に参加し続けてくれたのは優しさ故なのだろう。

 どんなに口ではひどいことを言っているようでも本質的に優しい人と、言葉遣いは礼儀正しく丁寧でも全く本音が出てこない人がいる。会社人間のような社会的な存在である時はそれはやむを得ないことかも知れない。自分をさらけ出すのが下手なもの仕方ないかも知れないし、むしろ全てを見せない方がうまい付き合い方なのかも知れない。中学からの友だちや定年退職してからの友だちはそうした鎧がなくても付き合えることが嬉しいし、性格が分っているだけに何を言っても許されるし許すべきだろう。

 男と女で「友だち以上恋人未満」を維持できるほど私は純情でないけれど、男同士であるならば壊れてもいいと思うくらい激しくぶつかり合うことを厭わない。それで壊れてしまうようであれば初めから友情などはなかったのだ。壊れることを恐れて、恋はそんな風に出来なかったが‥。
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