50歳近くなったバツイチの男に縁談話を持って行ったけれど、彼はガンとして受け入れない。自分勝手に生きて来た彼は「結婚してもまた不幸に巻き込むだけだ」と言う。やってみなければわからないのに、こう断言することが私には理解できないけれど、彼の心の中には整理し切れない何かがあるのだろう。しかし、よくあることだけれど、そう思い込んでいるのは当人だけで、彼が重大な問題だと思っていることは意外に塵のように小さなことなのかも知れない。それは結果であって、今はとてもそんな風には考えられないのだろう。
「私たち誰もが知っている<忠臣蔵>は、まだ物語の途中だった」のキャッチコピーのDVDを観た。『最後の忠臣蔵』である。日本人の誇りを描いた作品と言われている。役所広司は大石家の用人で、内藏助から隠し子を育てよと命令され、討ち入り前に姿を消す。佐藤浩市は侍とはいえ足軽で、討ち入りの後に内藏助から「生きて後世に真実を伝えよ」と命令される。名誉の死を許されなかったこのふたりの「使命」のぶつかり合いが映画の軸だ。名誉の死などと言うけれど、当時は徳川幕府に逆らった逆臣だったわけだからそんな英雄視されてはいないだろう。
内藏助の子を身分を隠して16年間育てて来た役所、内藏助の命令を守り通した佐藤、このふたりが巡り合ってしまうところから急展開していく。佐藤は役所に討ち入りした者よりも討ち入りに参加しなかった者の方がはるかに辛い日々を送っていると話す。しかし、役所はとにかく内藏助の子を母の願いどおり商家に嫁がせることに全力を尽くす。そして嫁入りとなった日、どこからともなく赤穂の侍たちが次々にやってきて、「大石殿にはお世話になった。ぜひ、嫁入り行列に参加させて欲しい」と加わる。その日、役目を終えた役所は切腹してしまう。
役所の一途に使命を守る姿には感動する。私が役所の立場であったならばやはりそうするだろうとさえ思う。生きる目的は子を守り育てることだから、目的がなくなった以上、生きていても仕方がないと考えるだろう。それにしても目的を果たして死んだ役所を、佐藤はなぜ朝まで一緒にいて手厚く葬ってやらなかったのか、それが最後の友情だろう。佐藤が死を選ばなかったように、いや多くの赤穂の侍たちが新しい生活を始めたように、役所も「ずっと好きでした」と言って床まで用意してくれた女と暮らしてもよかったはずだ。
日本人の誇り?それはいったい何なのだろう。使命を忠実に守りきることだろうか。状況が今日とは全く違う封建時代だから、役所が隠し子を育てること、佐藤が討ち入りの話を伝えること、それは使命なのだから尽くすのは当然だろう。嫁入りを聞いて駆けつけてくる赤穂の侍たちは、討ち入りを美化するための演出なのだろうが、全く馬鹿げている。弱い人間のいいとこ取りではないかと腹が立つ。いや、この映画はこんな風に都合よく生きている人と、役所のようにかたくなにしか生きられない人とを対比しているのだろうか。
誇り高く生きる道を進むのか、日々の暮らしの幸せを噛みしめて進むのか。理想に燃えて身を焦がしてしまうのか、少しの安らぎを幸せと思うのか、人は自分で決めていくことかも知れない。
「私たち誰もが知っている<忠臣蔵>は、まだ物語の途中だった」のキャッチコピーのDVDを観た。『最後の忠臣蔵』である。日本人の誇りを描いた作品と言われている。役所広司は大石家の用人で、内藏助から隠し子を育てよと命令され、討ち入り前に姿を消す。佐藤浩市は侍とはいえ足軽で、討ち入りの後に内藏助から「生きて後世に真実を伝えよ」と命令される。名誉の死を許されなかったこのふたりの「使命」のぶつかり合いが映画の軸だ。名誉の死などと言うけれど、当時は徳川幕府に逆らった逆臣だったわけだからそんな英雄視されてはいないだろう。
内藏助の子を身分を隠して16年間育てて来た役所、内藏助の命令を守り通した佐藤、このふたりが巡り合ってしまうところから急展開していく。佐藤は役所に討ち入りした者よりも討ち入りに参加しなかった者の方がはるかに辛い日々を送っていると話す。しかし、役所はとにかく内藏助の子を母の願いどおり商家に嫁がせることに全力を尽くす。そして嫁入りとなった日、どこからともなく赤穂の侍たちが次々にやってきて、「大石殿にはお世話になった。ぜひ、嫁入り行列に参加させて欲しい」と加わる。その日、役目を終えた役所は切腹してしまう。
役所の一途に使命を守る姿には感動する。私が役所の立場であったならばやはりそうするだろうとさえ思う。生きる目的は子を守り育てることだから、目的がなくなった以上、生きていても仕方がないと考えるだろう。それにしても目的を果たして死んだ役所を、佐藤はなぜ朝まで一緒にいて手厚く葬ってやらなかったのか、それが最後の友情だろう。佐藤が死を選ばなかったように、いや多くの赤穂の侍たちが新しい生活を始めたように、役所も「ずっと好きでした」と言って床まで用意してくれた女と暮らしてもよかったはずだ。
日本人の誇り?それはいったい何なのだろう。使命を忠実に守りきることだろうか。状況が今日とは全く違う封建時代だから、役所が隠し子を育てること、佐藤が討ち入りの話を伝えること、それは使命なのだから尽くすのは当然だろう。嫁入りを聞いて駆けつけてくる赤穂の侍たちは、討ち入りを美化するための演出なのだろうが、全く馬鹿げている。弱い人間のいいとこ取りではないかと腹が立つ。いや、この映画はこんな風に都合よく生きている人と、役所のようにかたくなにしか生きられない人とを対比しているのだろうか。
誇り高く生きる道を進むのか、日々の暮らしの幸せを噛みしめて進むのか。理想に燃えて身を焦がしてしまうのか、少しの安らぎを幸せと思うのか、人は自分で決めていくことかも知れない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます