大寒の今日は、風も無く朝から穏やかで、まるで春がやって来たのかと錯覚しそうだ。でもきっと、寒い日がぶり返すことだろう。日本人はこの四季の変化の中で暮らしてきた。絶対などと言うものは存在しないと肌で感じてきたはずだ。
けれど、明治になって、西洋文化が到来すると、中途半端ながらも絶対的なものを受け入れるようになった。四国松山の出身の友だちから、松山が生んだ明治の偉人、秋山兄弟と正岡子規のドラマ「坂の上の雲」が、NHKの日曜日午後11時から再放送されると聞いて見始めた。
原作者の司馬遼太郎さんは、「単なる戦争ものにしたくないと、ドラマ化に反対していた」とどこかで読んだ気がする。司馬さんが心配していたように、私には英雄物語にしか見えないが、まだ途中なのでどんな結末を持って来るかと期待している。
軍人の秋山兄弟の親友、正岡子規は日清・日露の戦争をどう思っていたのかと見ていたが、与謝野晶子のような反戦の俳句はなかった。ドラマの中では病床にある子規が、「戦場で死ぬ兵士と自分の死はどう違うのか」と問う場面があった。秋山の答えは「何も変わらん」だった。
東京の下町にも四季の移ろいがある。子規はそれを眺めて俳句を作っていた。絶対などというものに価値を見ていなかったのに、ドラマは国のために命を捧げることを美化しているようだ。
西洋の庭園は左右対称に設計されているが、日本の庭は現状を固定せずに作られている。日本人が追求してきた「あいまいさ」がここにある。
山極寿一先生も先の講演で話された、「縁側」や水墨画の「空白」は日本人の美意識が創り出したものだ。統一しないから個性を大事にしてきたと、言ってもいいのかも知れない。けれど、個性を大事にすれば、集団としての規律が保てない。
生産性を上げるには「統一」が便利だが、そうなると「個性」は抑えられる。私は個人を大切に接してきたつもりだが、頼って来た友だちも教え子も救えなかった。話が飛び過ぎて、どう結んでいいのか分からなくなった。
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