街路樹のツツジが満開になっている。ハナミズキの通りも満開だ。高校3年の孫娘にツツジを指して「満開だね。名前は知ってる?」と聞いてみた。「知らない」と言う。毎年、街路樹や家々の庭で見ているはずのツツジの名前を知れないのかと驚いた。ハナミズキなら知っているだろうと思って聞くと、「サクラ?」と言う。「サクラはもう散ってしまったよ。それに花の形も葉っぱの形も違うでしょう。ハナミズキだよ」と言うと、「ああ、そうか、あの一に青という字を書く人が歌っている」と続ける。「一青窈(ひととよう)は読めないよね」と私。
「じゃあ、この青々と若葉が茂っている街路樹は?」とケヤキを指すが、「知らない」と言う。「あの、棚から花房が垂れているのは?」「ウーン」「あれは藤だよ」「ああ、花が咲けば分かる」と、なんとも寂しいことを言う。高校3年にもなって、こんなに草木の名前を知らないのか。4歳の時から水泳ばかりしてきたけれど、小学校の1年の時には、イギリスにも旅行しているし、上海やグアムにも行っているが、あれはもっと小さい時だったから何も覚えていないかも知れない。
草木とか小鳥とか昆虫とか、そういうものに関心を持つか否かはかなり個人差がある。いろんなことに興味を抱くようになる小学校の高学年からは、家族旅行に出かけていないし、それでももう少し誰もが知っているような事柄は教えておく必要があった。両親が忙しくて出来ないのであれば、ジジババである私たちの責任だったと思った。高校生になって随分と女らしくなってきた。この子の家では新聞は取っていない。学校での話題についていくために、芸能界のことはケイタイで見ているようだけれど、高校生の関心はそんなことばかりなのだろうか。
私たちの高校時代とは半世紀の差があるのだから違って当然だけれども、それでも幼い気がする。『ハナミズキ』の歌の意味は分かっているのだろうか。「何か、ちょっと悲しい曲だったよね」と言っていたから、印象としてはキチンと受け止めているようだ。しかし、実は私自身は歌の意味がよく分かっていない。「君と好きな人が百年続きますように」と繰り返されるから、恋人の幸せを祈っているのだろう。彼も恋人が好きなのだが、「僕からの気持ちは重すぎて 一緒に渡るにはきっと船が沈んじゃう」、だから「どうぞお先にゆきなさい」と自分に言い聞かせるのだろう。
彼は自分の愛が、完璧に彼女を幸せに出来るのか、そういう迷いが自分の中にある、完全でない自分が彼女を愛するより、彼女が好きな人と結ばれる方が彼女にとって幸せになるはずだと考える。愛は考えるものではないのに、考えてしまうところが彼の限界なのだろう。だから「僕の我慢がいつか実を結び 果てない波がちゃんと止まりますように」と祈るのだ。夏目漱石の『こころ』は友人を出し抜いて結婚してしまうが、武者小路実篤の『友情』だったか自信がないが、友人のために身を引くようなストーリーだったから、『ハナミズキ』は実篤風なのかも知れない。
高校3年の孫娘に、「好きな人はいないの?」と聞くと、「いないし、将来、結婚はしない」と言う。結婚はしなくてもいいけれど、好きな人がいないのは困ったものだ。好きになることを恐れているのかとちょっと心配している。さて、明日から6日まではブログを休みます。
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