「力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」。映画『My back pages』を観た。東大の安田講堂攻防戦をアナウンスがニュースとして語る。そして安田講堂の内部が写されて行く。冒頭の文は壁に書かれた落書きの中でも有名な言葉だ。映画では出ていないが、安田講堂にはこの他にいろいろな落書きがあり、それを集めて本にもなったと思う。
「真黒に汚れた手の中に ごそごそもぐりこむ硬いベッドの上に 僕達は革命の夢を見る」「我々は最後まで勇敢に戦い抜くであろう。だが、我々は玉砕の道を選んだのではない。我々の後に必ずや我々以上の勇気ある若者たちが、東大において、いや全日本全世界において、怒涛の進撃を開始するであろうことを固く信じているからこそ、この道を選んだのだ」「未来を恐れて現実を避ける君 君に未来はない 君に現在がないから 君には現在も未来もない 君にはLifeがない 君の腕時計の針が回るだけ」。
安田講堂の陥落を見ていて、傍観者であることに後ろめたさを感じていた沢田(妻夫木)は念願の新聞社に就職した。同じように攻防戦を見ていた学生(松山)は、「今こそ立ち上がるべきだ」と仲間を集め、武装蜂起を企てる。そんな1970年前後を描いた映画だが、どうして今頃になって全共闘を取り上げたのだろう。私はすでに社会人になっていた。子どもの頃から「体制」を快く思っていなかったから、全共闘にはなんとなくシンパシーを感じていた。しかし、安田講堂の攻防戦をテレビニュースで見て、おしまいだなと思ってしまった。
落書きにあるように、彼らは本気で革命をする気だったのかも知れない。おそらくそうなのだろうけれど、頭がいいはずの彼らはどうしてそんな幻想を現実と錯覚してしまったのだろう。70年前後は全国各地の大学でストが行われ、バリケートが築かれた。しかし、それでも大学生の何%が参加したのだろう。沢田のように傍観者でいることに後ろめたさを感じた人がどれくらいいたことだろう。「大学解体」や「自己否定」は格好いい言葉だったけれど、だからどうしたらよいのか、何も示すことができなかった。
全共闘は学生大衆が既成セクトを乗り越えたものだったのに、結局はセクトに収束していった。アメリカやヨーロッパの学生運動家が政治家になって、政治の中から体制を変えようとしたのに、日本ではせいぜい地方議員になっているにすぎない。アメリカのクリントンやイギリスのブラウンも学生運動の出身者だ。全共闘は体制そのものを否定した。大学解体や自己否定も真っ向からの全面否定だったから、新しい社会のビジョンを描くことは体制に迎合することになってしまったのだろう。
まるっきりピエロそのものでしかなかったが、本人たちは真剣に「革命」を演じていたのだ。傍観者であることを恥じていたけれど、むしろ時代をきちんと見極めてきたのかと思う。懐かしいなとは思ったけれど、共感できるものはなかった。いや、最後に沢田が泣くシーンにはジーンときた。彼がなぜ泣いたのか分からないけれど、人は愚かだけれど暖かいとは思った。冒頭の落書きがこの世代の墓標なのだろう。