友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

映画『My back pages』

2012年01月11日 20時34分16秒 | Weblog

 「力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」。映画『My back pages』を観た。東大の安田講堂攻防戦をアナウンスがニュースとして語る。そして安田講堂の内部が写されて行く。冒頭の文は壁に書かれた落書きの中でも有名な言葉だ。映画では出ていないが、安田講堂にはこの他にいろいろな落書きがあり、それを集めて本にもなったと思う。

 

 「真黒に汚れた手の中に ごそごそもぐりこむ硬いベッドの上に 僕達は革命の夢を見る」「我々は最後まで勇敢に戦い抜くであろう。だが、我々は玉砕の道を選んだのではない。我々の後に必ずや我々以上の勇気ある若者たちが、東大において、いや全日本全世界において、怒涛の進撃を開始するであろうことを固く信じているからこそ、この道を選んだのだ」「未来を恐れて現実を避ける君 君に未来はない 君に現在がないから 君には現在も未来もない 君にはLifeがない 君の腕時計の針が回るだけ」。

 

 安田講堂の陥落を見ていて、傍観者であることに後ろめたさを感じていた沢田(妻夫木)は念願の新聞社に就職した。同じように攻防戦を見ていた学生(松山)は、「今こそ立ち上がるべきだ」と仲間を集め、武装蜂起を企てる。そんな1970年前後を描いた映画だが、どうして今頃になって全共闘を取り上げたのだろう。私はすでに社会人になっていた。子どもの頃から「体制」を快く思っていなかったから、全共闘にはなんとなくシンパシーを感じていた。しかし、安田講堂の攻防戦をテレビニュースで見て、おしまいだなと思ってしまった。

 

 落書きにあるように、彼らは本気で革命をする気だったのかも知れない。おそらくそうなのだろうけれど、頭がいいはずの彼らはどうしてそんな幻想を現実と錯覚してしまったのだろう。70年前後は全国各地の大学でストが行われ、バリケートが築かれた。しかし、それでも大学生の何%が参加したのだろう。沢田のように傍観者でいることに後ろめたさを感じた人がどれくらいいたことだろう。「大学解体」や「自己否定」は格好いい言葉だったけれど、だからどうしたらよいのか、何も示すことができなかった。

 

 全共闘は学生大衆が既成セクトを乗り越えたものだったのに、結局はセクトに収束していった。アメリカやヨーロッパの学生運動家が政治家になって、政治の中から体制を変えようとしたのに、日本ではせいぜい地方議員になっているにすぎない。アメリカのクリントンやイギリスのブラウンも学生運動の出身者だ。全共闘は体制そのものを否定した。大学解体や自己否定も真っ向からの全面否定だったから、新しい社会のビジョンを描くことは体制に迎合することになってしまったのだろう。

 

 まるっきりピエロそのものでしかなかったが、本人たちは真剣に「革命」を演じていたのだ。傍観者であることを恥じていたけれど、むしろ時代をきちんと見極めてきたのかと思う。懐かしいなとは思ったけれど、共感できるものはなかった。いや、最後に沢田が泣くシーンにはジーンときた。彼がなぜ泣いたのか分からないけれど、人は愚かだけれど暖かいとは思った。冒頭の落書きがこの世代の墓標なのだろう。

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本当に整理する日が来るまで

2012年01月10日 19時14分39秒 | Weblog

 朝のNHKドラマ『カーネーション』を面白いと思って見ている。戦死した夫の戦友から「ずっと大事にしていたものです」と、主人公の糸子は油紙に包まれた1枚の写真を渡される。夫が戦地に赴く時、着ていた背広が家に送られてきた。「こういうものには大事なものが隠されている」と父親に言われて背広を探すと、1枚の写真が出てきた。そこには夫と芸者が写っていた。浮気をしていたことを知り、怒りよりもショックが大きかった。だから、渡された写真がどんなものか気になるところだ。

 

 戦死した夫が大事に持っていたのは、長女の宮参りの時に写した3人の写真だった。そこで糸子は安堵し、全てを許し、夫と芸者の写真を燃やす。人は自分の過去を清算する時、過去の思い出が詰まったものを燃やしてしまう。過去が全て灰になっていくのを見届けることで、納得するのか、断ち切ったと確信するのだろう。人が死ぬと火葬されるのも、衛生上の観点だけでなく、断ち切る意味があるのかも知れない。時には思い切って過去を清算しないと、人は前に進むことができないのだろう。

 

 「整理の哲学」(?)でも、「ときめかない」ものは捨てなさいと言っていた。私は整理が苦手で、小さい時からのアルバムはもちろん、中学から書き始めた日記、手紙や毎年頂く年賀状など、何でも取ってある。『週刊アエラ』も創刊号から取ってあったが、余りにも増えすぎて廃品回収に出した。単行本はなかなか捨てられず、読みもしないのに本棚に飾られている。私の物置部屋には子どもたちのアルバムが置かれている。「どうして持っていかないのだろう?」とカミさんに言うと、「子どもの時の写真は親のために残してあるそうよ」と教えてもらった。

 

 選挙に出ないと決めて、そのための資料などは一切捨てた。捨てることで気持ちも整理できた。古い手紙や年賀状など、仕舞っておいても場所を取るだけなのに、なかなか踏ん切りがつかない。自分に関するものを整理し出すのは、死を意識し始めた時と言われることも気にかかるが、それでもやはり、おいおい整理し始めなくてはならないだろう。娘たちが、「何これ?」と思わなくてすむようにしておくことも親の務めだろう。まずは手紙や年賀状から始めなくてはならない。何しろ結婚した時から年毎に菓子箱に入れて貯めてあるのだから。

 

 古い手紙や年賀状や写真を貯めておくのは、実は意味の無い事をしていると分かっているつもりだけれど、それが整理できないのだから不思議だ。私は、「冷たい」とか「思い切ったことをする」とか、言われることもあるのに、思い出の整理となると決断できないというのも情けない。それでも開き直って、別にできないから何か困るようなことが実際あるのかと思ってしまう。まあ、こんな風にいつまでもグダグダと続けていくのだろう。いつか、本当に整理する日がくるまで。

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エネルギーが無くなっている

2012年01月09日 18時34分09秒 | Weblog

 正月の1日から3日は、実に穏やかな天気だった。1日は実業団の駅伝を、続いて2日は大学の箱根駅伝を見た。4日は新年会のため見られなかった箱根駅伝の復路を見た。ともに1日5時間くらいの放映で、ただ走っているだけなのにどこが面白いのかと、後になってそう思う。結局、正月番組はこの2つを見ただけで、どこに行くこともないのに、テレビを見ることもなかった。それほど見たいと思う番組がなかったのだが、それだけ自分が歳をとったせいなのだろう。

 

 今日は高校サッカーの全国大会の決勝戦だったのに見忘れている。ニュースで市立船橋が四日市中央に延長戦で勝利したとあった。私の母校も私が高校2年の時、全国大会に出場した。あの時は東京ではなく、西宮球場だったか運動場だったか、とにかく西宮で行われた。私は生徒会長だったので、3年生で親しかった人に応援団長を頼み、応援団を募ったり、バスの手配をしたりして西宮へ出掛けた。対戦相手は忘れてしまったけれど、1回戦で敗退だった。この時の試合よりも、県大会で宿敵中京を破った時の方が感激深かったのも不思議だ。

 

 それはもう50年も前のことだ。10年一昔というけれど、年月の流れは速い。今日は成人の日というので、各テレビ局が成人式を特集していた。20年くらい前は、成人式は荒れていて祝辞を述べる来賓に罵声が飛んだりしていたし、逆に来賓が壇上から成人に怒鳴ることもあった。酒を飲んで暴れる成人がニュースになっていたけれど、今年はそんな報道は全くなかった。アナウンサーが「これは大震災の影響なのでしょうか」と述べていたけれど、あれだけ毎日悲惨な映像を見ていたのだから、厳粛な気持ちで式に臨むのは当然な気がする。

 

 それにしても、「将来に希望が持てますか」と聞かれて、ほとんどの成人が「持てない」と答えているのには、申し訳ない気になった。私たちに責任があるのかと同世代の人たちに言われそうだけれど、もちろん私たちが積極的にそんな社会を目指したわけではないけれど、結果としての責任は大きい。社会の仕組み、とりわけ経済の流れは、人の意識よりも速い。気付いた時に何とかしなければならないはずだが、もうその時は手の施しようがないのが現実だ。

 

 「尊敬する人は誰ですか」の問いに、「両親」と答えてくれているのが唯一ありがたいと思った。社会に希望が持てず、両親も尊敬できず、「何が一番必要ですか」の質問に、「お金」と答える社会に送り出してしまった責任は大きいはずだ。「お金」と答えてくれた方が、「何もいらない」と答えるよりいいのか悪いのか、その判断に困る。「働く場所」「希望の持てる社会」「元気」「愛」などという文字を被災地の成人たちは掲げていた。それはきっと全国のあるいは全世界の若者の願いだろう。

 

 若者が年寄りのようなことを言う社会は決して健康的とはいえない。若者は反抗的で非常識なものなのだ。親に逆らい、社会に抗していくことで、活気と活力が生まれてくる。それなのに、若者たちが常識的になってしまうのであれば、こうなってしまった責任を負うて、私たち年寄りが反抗的で非常識にならなくてはならないが、もうそのエネルギーが無くなっている。

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どうすべきなのだろう?

2012年01月08日 19時28分15秒 | Weblog

 私の井戸掘り仲間の子どもたちも、先日会った卒業生の子どもたちも、結婚してもよい年齢なのに、いやもう小学校へ通うような子どもがいてもよい年齢なのに、結婚しないで家にいる。働かずに親に食べさせてもらっているわけではなく、働いて給料をもらっているが、親元から離れようとはしない。好きな異性もいないし、「恋愛なんかめんどくさい」と思っているらしい。女の子でも男の子でも、家にいれば親が衣食住の面倒をみてくれるから、わざわざ独立して家のことまでやるのは、時間的にも経済的にも無駄と思えるようだ。

 

 親の世話を受けて生活しているのだから、パラサイト症候群なのだろうけれど、「ちゃんと家にはお金を入れていますから」と言う。下宿生活のつもりかも知れないが、何もかも面倒をみてもらっているのだから半分は寄生虫のようなものだ。子どもに自立を促さない親の方が問題だと思うけれど、そういう家庭が多くなってしまったのは事実だ。これは日本だけでなく、欧米にも見られるそうで、イギリスでは「ブーメラン・チルドレン」と呼ばれていると聞いた。

 

 アメリカの第35代大統領ジョン・F・ケネディの祖父はアイルランドからの移民で、アメリカで最初に就いた仕事は沖仲仕だった。野望と才覚に富んだ彼はその力仕事から抜け出し、32歳で州議会議員となり、やがてボストンの小さな銀行の理事となった。彼は息子をプロテスタントの学校に入れ、アイルランド移民いう差別を受けないようにした。息子はハーバード大学を卒業し、やがてケネディ財団を形成する立志伝中の人物となっていった。規模の違いはあるけれど、昨年、TBSテレビが放映した『99年の愛』の日本人も似ている。

 

 日本では食べていけないからとアメリカに渡り、苦労を重ねてやがて大農園主になっていく。1910年代から20年代のアメリカは、努力した者が報われる社会だったのだろう。「アメリカの国民総生産は年に5%ずつ成長し、10年間で一人当たりの所得は30%以上増えた。勃興した中産階級の家では、自動車、ラジオ、蓄音機、洗濯機、掃除機、ミシン、電話の7つの文化製品があるのが普通になっていた。レジャーを楽しむ金銭的余裕がある世界史上初めての社会が生まれた。レストランや美容室を盛んに利用し、映画を観に行った」(『金融資産の崩壊』より)。

 

 これは私たちが生きてきた戦後社会に似ている。夢中で働き、家を購入し、テレビやエアコンを備え、海外へも旅行に出掛け、一家に2台3台の車を持つ。物質的に恵まれてきた頃から盛んに精神的なものの欠如が問題視されてきた。それでもホリエモンや村上ファンドの新興成金が旧勢力に対抗しそうにまで大きくなっていた。バブルがはじけ、醜いものが見え初めた。そこで利権まみれの自民党政治に決別し、新しい社会に向けて政権交代に期待した。けれども、期待は見事に裏切られた。

 

 「非正規雇用が増えて中間層が崩壊する社会の到来は、危険な時代への予兆」「生活に追われて政治的な難題に真正面から対峙するゆとりもない。同時に、精神のバランスを維持するために『うっぷん晴らし政治』を渇望する」「大阪市の橋下市長の『ハシズム現象』も貧困マジョリティーの心情的瞬発力に支えられている」(経済評論家の内橋克人さん)。こんな先が見えない社会なのだから、家庭を持つなど恐ろしく無責任だと子どもたちは感じているのだろう。どうすべきなのだろう?

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お幸せにとエールを送る

2012年01月07日 18時17分24秒 | Weblog

 今日までに163枚の年賀状が届いた。表も裏も印刷だけの寂しいものもあるが、生きていますよ、気にしていますよ、というメッセージと思えばありがたいことだ。年賀状を眺めていたら、息子があるいは娘が外国人と結婚しているとか、外国に住んでいるというものが5枚もあった。私を「日本のお父さん」と呼んでくれる、トルコ人から「家族が増えました」という年賀状も届いた。彼からは毎年、賀状が来る。何だか私の年賀状も国際的だなと勝手に思っている。

 

 考えてみれば、私の次女夫婦もしばらくタイにいたし、そのダンナの両親も長い間外国暮らしだった。誕生日会の仲間のお姉さんはアメリカで暮らしているし、彼の娘のダンナは中国へよく出張している。別のメンバーの娘のダンナもアメリカへ行ったりタイへ行ったりしている。メンバーのひとりもフィリッピンや中国やイギリスなどへ出張している。外国へ出掛けることが珍しいことではなくなっている。

 

 外国人をひとりも知らないうちは、なんとなく疑心暗鬼な目で外国人を見てしまう。けれども親しく接する機会があると、意外に自分たちと変わらないと安心できる。言葉の壁は大きいけれど、なんとなく伝われば、もう凄く親しくなったような気持ちにさえなれる。外国へ出掛けていってひどい目に遭った人は、その国のことを悪く言うけれど、それでもまたいい人に出会えたなら、「例外はどこの国にもある」と言うようになる。

 

 今年の年賀状で一番驚かされたのは、「昨年は娘がスコットランドへ嫁ぎ、62歳の私も‥‥。人生何が起きるかわかりません!!」というものだ。えっ、娘さんはスコットランドへ!それだけでもビックリだったのに、私も‥‥とは、確かに人生何が起きるかわからない。でも、こんな幸せなことはないと思う。やったね!ブラボー!と叫んでいいのではないだろうか。結婚という形をとったのかは定かでないが、一緒に暮らすだけでもいい。愛に形を求める必要はない。

 

 彼女は色が白くて明るくお茶目で快活な女性だ。男性なら絶対に彼女に恋するだろう。それなのに、どういう理由かは知らないが離婚し、ふたりの子どもを育ててきた。喫茶店を両親と一緒に営んでいたけれど両親が倒れ、お店を改造して夜だけ開く隠れ家的な店でお酒と料理を出していた。演奏会や踊りなども開き、お店にやってくる客筋もよかったが、いつかお店を閉めて別のところに住むようになった。聞くところでは、介護の仕事をしていた。

 

 それはとても彼女に合っていると思った。よく気が付くし、世話好きである。それに勉強家で一生懸命にやる。手を抜くことがない。唯一の欠点はおっちょこちょいなところがあるくらいだが、それが男性には可愛く映る。彼女を射止めた男性はきっと、素晴しい女性に出会ったことに感謝していることだろう。うらやましい男である。でも、まあ、人生はそんなものなのだろう。お幸せに!とエールを送ろう。

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和合への道

2012年01月06日 22時35分44秒 | Weblog

 桃厳寺は、大仏とともにねむり弁才天で有名な寺だ。男衆に言われて、左手の引き戸を開けるとそこは中庭になっていて、渡り廊下で弁財殿とつながっていた。この中庭も手入れをすれば結構見応えのある庭になるのだろうけれど、今はそこまで手が回らない風景だった。履物が備えてあるので庭に出て歩いてみると、一角に男根の石像がある。寺にもこんなものが置いてあるのかと、その時は余り何も思わなかった。

 

 弁財殿に上がるとすぐに真っ白な裸体の弁財天が目に入ってくる。琵琶を枕に横たわっている姿だ。上半身はむき出しているけれど、お腹から足にかけて腰巻のような布がかかっている。卒業生が「この布は取ってもいいですかね」と冗談で言うけれど、そこまでする人はいないようだ。真っ白な裸体だけれど、いくらでも触っていいよと言うだけに、豊かな乳房は少し色が違っている。「ガン予防とかで触る人が多いのよ」とカミさんらは言い、乳房に手を添えていた。

 

 弁才天は体つきから見ると中年の女性で、丸っぽく柔らかな身体をしている。仏教のことはよく知らないが、釈迦は偶像礼拝を戒めていたのだから、この様な像が仏像として祭られてびっくりしているのではないだろうか。天の名のつく仏像はヒンズー教に見られたものだろう。釈迦の教えが仏教として形作られていく過程で、ヒンズー教やその他の土俗宗教が取り込まれていったのだろう。

 

 それにしても、ねむり弁才天だけならともかく、この弁財殿に祭られているものは、男根と女陰ばかりで、中には歓喜仏という男女が立ったまま性交している像もある。どう見ても住職の個人的な趣味で集めたとしか思えないものばかりだ。寺のパンフレットには「動植物をはじめ、生物にはバクテリアにいたるまで♀♂がある。電気にしても、+・-があるごとく、和合の精神は生命の根源で神聖な真理である。即ち生命の力は、生命を与える陽の力と、生命を受けとり伝える陰の力の二つから成り立っている」とあるが、こじつけとしか思えない。

 

 仏教はキリスト教のように絶対の神がいるわけではなく、自分とはなにか社会とは何かを極めていくことで、真理を悟ることにある。悟ることができたものが仏となるが神ではない。和合は究極の歓喜であり神秘である。だから、和合は生命の根源であり神聖な真理だと悟った住職がそれを伝えるために様々な性器を祭ったといっても間違いではないのかも知れない。そう思ってこれらの像を見ようとするけれど、未だに俗物である私には悟りの目で見ることはできなかった。

 

 屋上に祭られた白蛇とその両隣に置かれたラマ仏は左が男で右が女なのだが、「さすると霊験がある」と書かれているためか、その性器はピカピカに光っていた。インターネットに載っていると卒業生が教えてくれたけれど、確かにお年寄りがお参りのために来ているという寺ではない印象だった。この日も、私たちの他にも訪れる人たちが多くいた。それも若い人たちがカップルで来ていた。大仏はともかく、この弁財殿でどんな顔をして男根や女陰を拝観するのだろう。それとも和合への道なのだろうか。合掌。

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名古屋大仏を拝観する

2012年01月05日 18時19分18秒 | Weblog

 明けましておめでとうございます。今年も元気にブログを続けていきます。昨年末は「胸の病」で、大げさに「もうダメ!」と書いたのか、そう思ってくれたのか、「もう少し、生きていて欲しい」とまで言われてしまった。まだ今のところ大丈夫です。住民検診で心電図が引っかかり、毎年のことなので放っておいたのに、長女が心配して検査の日程を決めてくれた。それを聞いた人が、「いよいよダメみたい」と思ってくれたのだ。私としては別に、どこそこが痛いとか苦しいとか、そういう自覚がないので、気楽な気持ちで検査に行ってこようと思っている。そんな理由だから、今年は楽しい文章を多く書くようにしたい。

 

 さて昨日、卒業生から「初詣に行かない?」と誘われた。「どこへ行くの?」と聞き、地下鉄の本山駅で待ち合わせることになった。電話してきた家族と東京から帰郷した夫婦の5人が迎えてくれた。電話をくれた卒業生は学年が1つ下の子と結婚し、私はその仲人をさせてもらった。可愛くて仕方がない、ひとりっ子の女の子も一緒だ。私は初めて会ったけれど、両親を足して2で割ったようによく似ている。東京に行った卒業生のカミさんは結婚した時だったか、我が家にふたりで遊びに来てくれたから、20数年ぶりの再会だった。こんな風に卒業生から誘ってもらえるとは本当に教師冥利に尽きる。

 

 「名古屋大仏を知ってる?」と言われて、「いや、残念ながら知らない」と答える。これからその寺に行くと言うのだ。愛知県には布袋と名和に大仏があるけれど、名古屋に大仏があるとは知らなかった。寺の名前は桃厳寺(とうげんじ)といい、四谷通り沿いにあった。信長の父、信秀の菩提寺で、「境内は約4千坪あり、四季折々に花をつけ、都会の中で静寂なやすらぎの場として親しまれている」と寺のパンフレットにある。しかし整備はされていないようで、古寺の朽ちていく様があちこちに見られた。最初に目にするのが不老門で、鐘楼を兼ねている。階段を上がり自由に鐘を付くこともできるが、一度に6人以上は上らないでという注意書きがある。

 

 不老門をくぐり進むと、右手に大仏の顔が見える。確かに大きい、青い空にくっきりと見える顔からもその大きさが想像できる。右手に石階段があり、下りた左手が広くなっていて、大仏が鎮座している。大仏像の座高は10メートル、その下の基壇は5メートルあり、釈迦の弟子や鹿、孔雀のレリーフ像がある。さらにその周りには象が配置され、これらの像は見事な写実で表現されている。大仏は昨年、塗り替えが行われたというが、緑色が青空に合っている。名古屋にこの様な立派な大仏があるとは知らなかった。大仏像を見て、本堂へ戻る途中に犬の廟があった。ペットブームで亡くなった犬を供養する人が多いのだろう。

 

 本堂に上がると4人の男衆が迎えてくれた。本堂には直径1メートルある日本一大きな木魚があり、「片手を触れるのみでも過去の悪業が消滅する」とある。早速、木魚に触れてみた。樹齢百年を越す楠のなんとも言えない安らぎが感じられる。この寺では、1月1日から5日まで、本堂の隣にある弁財殿が御開扉される。拝観料は1千円と普通の寺より高いが、「見ていく価値はある」と男衆は言う。ここには真っ白な裸体の弁財天が横たわっていて、写真撮影は禁止だがおさわりは自由だと。この続きは明日に。

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