友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

社会から貧困を無くす道

2012年04月20日 17時06分32秒 | Weblog

 誕生日会の仲間が、私の退院祝いを今晩、西洋料理の店で行ってくれる。こんな付き合いがもう14年続いている。ペースメーカーの手術を受けることになって、一番心配したのはこれまでどおりのことが出来なくなるのだろうか、ということだった。医師は「普段どおりの生活をしてかまいません」と言う。お酒も飲んでもよいことになった。仲間との付き合いにお酒が無いのは考えられない。これまでと変わらずに付き合えるのがいい。

 ペースメーカーの手術と言われた時はビックリしたけれど、聞いてみると意外にそんな人がいる。心臓の薬を飲んでいると言う人もいる。年を取れば、当然身体のどこかに金属疲労が現れてくる。長い間使いっぱなしなのだから、ある意味で仕方のないことだ。私たちが子どもの頃なら、70歳近い人はかなりの年寄りで、おばあさんなら腰の曲がった人が多かった。皮膚だって皺だらけだった。今はみんなキレイにしているし、腰の曲がった人の方が少ないくらいだろう。

 生活保護を受けている人は、年寄りでしかも身寄りが無いという人が多かったのに、最近では就労年齢である20代から50代の人に増えているそうだ。友人が生活困難者の就労支援を行っているけれど、一旦、生活保護を受けると就労意欲が低下してしまうと嘆いていた。怠けていて、お金が入るならその方がいいかというと、人間は不思議なもので、普通の人と同じように働いてお金を得たいのだそうだ。そういう社会的な評価を受けていると、働くことに喜びを感じるようになるが、のっけから社会のクズ扱いされると、勤労意欲も失っていくのだと彼は言う。

 現行の年金制度はこれから成り立たなくなると政府は言い、そのためには社会保障制度の抜本的な改革が必要だと言っている。私もペースメーカーを植え込んだために障害者となった。それでいろんな特典が受けられるそうだが、なぜペースメーカーを埋め込むと障害者なのかと納得出来ないでいる。それに、いろいろな特典があることも不思議な気がするけれど、「いいのよ。そういう制度なのだから」と言われ、何かますます弱者へと追い込まれている気がしている。

 「いっそのこと、年金制度は廃止し、生活保護に切り替えた方がいい」と友人はいつものような極論を発する。「日本人は自立して生きるというプライドを持っている。そのプライドを失くした者しか生活保護を申請しない。その方が現実的な解決策だ」。そうかも知れないけれど、まず誰もが働ける社会の仕組みが必要で、どうしてもそれが出来ない人を社会が保護する。だから収入の多い人が支援するために多くを拠出することになる。そんなことをしたら、現在既にそうなっているが、「誰も働かなくなる」と言った人もいたけれど、みんながみんな、働かずに贅沢に暮らしたいと願っているとは思えない。

 ささやかでも、時にはお酒を飲み、美味しい料理を食べ、大いに笑ったり話したり、そんな時間が幸せなのだと思う。みんなが気持ちよく働ける仕組みこそが、社会から貧困を無くす道だろう。

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「今日は何の日?」

2012年04月19日 21時47分39秒 | Weblog

 私が少しの間、手伝いに通っていた介護施設では、「今日は何の日」を紹介することから一日が始まった。スタッフが調べてきたことを話すのだが、知っていることなら次々に話が膨らむけれど、あまり知られていないことだと、「へぇー」で終わってしまう。お年寄りは昔のことはよく覚えていて、戦争の頃やその直後の話になると盛り上がる。その時の印象が強かったのか、私はブログのネタが見つからないと、「今日は何の日」を調べて、そこからヒントを得ようとする。

 今日は忙しかった割にはこれというものが思いつかなくて、「何の日」を調べていたら、命日の話ばかりだった。今日はバイロンの、明日は内田百聞の、昨日はアインシュタインの、一昨日は徳川家康の、という具合である。この4人の中で一番よく知られているのは徳川家康だろう。その次はアインシュタインだろうが、科学者で相対性理論を打ち立てた人であることは知っていても、相対性理論って何かと聞かれて答えられる人は少ないと思う。ドイツ生まれのユダヤ人である彼はアメリカ大統領に原子爆弾の開発を勧めた手紙を出したことは知られていないし、死ぬ直前までそのことを悔やんでいたことも知られていない。

 バイロンは名前を聞いたことがあっても、どういう人なのか私は知らない。「われは群れと交わることを侮ってきた。たとえ、その首領となること、そしてその群れが狼のそれであろうとも。獅子は孤独だ。われも孤独だ」。「私は世間を愛さず、世間も私を愛さなかった。私は世間の口におもねらず、その偶像の前に膝を曲げなかった」。ロマン主義の代表的詩人で、稀にみる美貌の持ち主、自由奔放に数々の恋を重ね、ギリシアの独立戦争にも参加し、波乱に満ちた生涯を送ったという。この詩や言葉を読んだだけでも、詩人の孤独と自尊心の強さがわかる。

 内田百聞は夏目漱石の門下生で、芥川龍之介と同世代の人のようだが、私は初めて知る。徳川家康は同じ愛知県の出身というだけで、身近に感じるのだから不思議だ。戦国時代に終止符を打ち、武家政治を確立した家康だが、織田信長や豊臣秀吉という先人がいたからだとは誰もが認めるところだろう。狸おやじとか、権力を手に入れるためには何でもする人と非難する声もあるけれど、信長や秀吉から学んだものを生かしていく能力は極めて優れている。権力を手中に収めると、歴史から学ぶ姿勢は、薄らぐのが常なのかも知れないが、家康はそうではなかったところが、今日の民主党と違うところだろう。

 秀吉は豪華絢爛さで人を圧倒したけれど、それではお金がかかり、身の破滅を招くことになる。自分は質素倹約に努め、諸大名には参勤交代でお金を使わせ、反旗を翻す資金を無くさせた。名古屋の人が豪華な結婚式をするのに、家康の生まれた三河では質素を重んじた。それは濃尾平野では豊な実りが期待できたけれど、三河台地では米の収穫があてに出来ない地域性にあったと思う。

 ちなみに私の生まれた4月16日は、チャップリンの誕生日でもある。何だかちょっと鼻が高くなった気がした。

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花粉症と神経衰弱

2012年04月18日 21時23分43秒 | Weblog

 朝から鼻水とくしゃみが止まらない。花粉症は卒業できたと思うほど、最近では治まっていたのに、どうしたわけか今日は鼻水がポタポタと落ちてくる。時折り、大きな声で「ハックシュン」を連発してしまう。昔、薬剤師の友人に花粉症の悩みを話すと、「それは若い証拠。年を取ると花粉に反応する力も無くなる」と言われ、なるほどと妙に納得した。こうして花粉症に悩まされているのは、まだ若いからだと勝手に思い込むことにする。

 石川啄木の家族は肺結核だったから、家中で「ゴホン、ゴホン」とやっていたことだろう。鼻水も悲惨だけれど、咳きはもっと悲惨だろう。明治の頃には花粉症などという病名は存在しなかったかも知れない。私の子どもの頃でも、そんな病気の話は聞かなかった。だから産業の急速な発展が生み出した病気なのだろう。明治になって、文人らの間で流行ったのは神経衰弱だったのではないだろうか。

 夏目漱石は東京育ちで、小さい頃には落語をよく聞いていたそうだ。愉快とか滑稽に憧れていたのに、実生活では神経衰弱で胃潰瘍という典型的な心のストレスの持ち主だった。胃潰瘍になったことのない人には想像できないかも知れないが、シクシク痛むうちはまだ耐えられるけれど、ジクジク痛み出すと「誰でもいいから、胃を切り取ってくれ」と叫びたくなる。漱石は痛む胃に「水をかけてくれ」と叫んだと聞いた。確かに腹の中で火事が起きている感じだ。

 神経衰弱と「うつ病」は同じなのか、別のものなのか、私は知らないけれど、いろいろ考え込むような人を「神経衰弱な奴だ」と言っていた気がする。神経が細かいというか、人に気を使い過ぎるタイプに多く見られる。しかし、細やかな心遣いができるのに、性格がとても明るい人もいる。細やかな心遣いなどしているつもりがないから、心の負担が無いのだろう。とても幸せな人だと思う。逆に、そんなに気を使っているように見えないのに、感情の起伏の大きい人もいて、胃潰瘍になったりする人もいるから、人を見かけだけで判断するのはよくない。

 1963年に起きた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の犯人は、福島県の貧しい農家に生まれた。6男5女の10人目の子だった。アカギレが原因で黴菌が入り、骨髄炎を患い、足が不自由だった。勉強する機会など無かった犯人が刑務所で短歌を学び、いくつもの歌を作っている。

   明日の死を 前にひたすら 打ちつづく 太鼓を指で 聴きつつ眠る

   世をあとに いま逝くわれに 花びらを 散らすか門の 若き枇杷の木

 犯人は「今度生まれる時は、真人間になって生まれてきます」と述べたと言う。彼は胃潰瘍や花粉症で悩むということはなかったのだろうか。この最後の言葉からは、普通に健全な人柄が窺える。犯罪はなぜ生まれたのだろう。

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石川啄木と尾崎豊の死

2012年04月17日 21時33分48秒 | Weblog

 石川啄木は1912年4月13日、肺結核のためにこの世を去った。わずか、26年の生であったが、その生涯は実に波乱に満ちている。お寺の子どもであったけれど、その家庭はどこか複雑である。子どもの頃は優秀で、盛岡中学へ進級し、14歳の時に盛岡女学校の生徒、堀合節子を知る。15歳となり成績は不振、その反面で文学を志すようになり、岩手日報に短歌を発表し、友人らと短歌会を結成する。

 17歳の時、中退して文学で身を立てようと上京する。与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねたり、雑誌の編集者を希望して就職しようとするが失敗して故郷へ戻る。アメリカの女流文学者の詩集を研究したり、日露戦争論を「岩手日報」に掲載したり、明星派の新進詩人として詩集出版に奔走したりして、再び上京する。けれども、父親が寺のお金を滞納し、懲戒処分を受けたことから、生活は暗転するが、たしかこの年に啄木は節子と結婚している。19歳の時である。

 22歳の時、北海道で新生活を開こうとするが、どこも長続きしなかった。23歳、創作生活を目指して上京する。これを助けたのは金田一京助で、借金を繰り返す啄木を「石川五右衛門の子孫ではないか」と書いている。啄木の小説は全く評価されなかったようだ。その苦悩のはけ口が短歌だったのかも知れない。啄木の生活はすさまじいものがある。一家の生活を支えるには余りにも貧困だった。にもかかわらず、手に入ったお金を酒や女に使ってしまう。ひもじくて泣く子どもに与える乳も出ず、沢庵をしゃぶらせて一時をしのぐ生活だったと節子は書いている。

 啄木の身勝手な行動は、ローマ字日記を読むとよく分かる。節子はローマ字が読めなかったので、読まれて困るような女郎買いなどが書かれている。それでも、啄木はやはり天才だと思う。私は啄木の短歌を詠むまでは、短歌はまどろっこしい古語ばかりで全く面白くないと思っていた。けれど、啄木の短歌は違う。生活がある主張がある、そう思った。私が最初に短歌に興味を抱いたのは啄木の歌で、日常のままを口ずさんでいいのだと教えてくれたのは俵万智さんの歌だった。

 尾崎豊が亡くなったのは1992年4月25日で、尾崎豊も啄木と同じ26歳だった。私は尾崎豊を石川啄木ほどには知らない。追悼か何かの番組で、ちらっと見たり聞いたりしたに過ぎないが、私がもし、尾崎豊と同年代か年下なら、間違いなく彼のファンになっていたと思う。彼の詩は痛いほど分かる。凄い歌詞を書く奴だなと感心した。自殺は当然の帰結だろうとも思った。そうすることで彼は完結した。天才はいつも孤独で悲しい。

 貧しさから一歩も抜け出せなかった啄木の一家は、次々と結核で死んでいった。啄木の長男はわずか3週間あまりでこの世を去った。啄木の母親は啄木の死の直前の3月に結核で亡くなっている。妻の節子は翌年に同じく結核で亡くなった。もし、一家にお金があったなら、こんなにも悲惨な最期にはならなかっただろう。けれど、もしそうであったら、啄木の歌はやはり変わっていただろう。何が良くて、何が悪いのか、軽々しくは判断すべきではない。

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今日は誕生日

2012年04月16日 18時08分08秒 | Weblog

 今日で68歳になった。ビックリしている。父も母も54歳で亡くなった。兄も若くして死んだ。姉は81歳で健在である。姉は若い頃、結核を患い、父が「長くは生きられないだろう」と言っていたそうだ。そんな話を聞いていたから、姉は早死にすると思い込んでいた。だから、姉は例外なのだと思っていたら、私もこんなに長く生きてきた。

 私の人生計画では、終点は70歳で、50代の後半に首長になり、2期か長くても3期勤めたなら引退し、最後の何年かは好きなことをして暮らす。だから62歳で首長になれなかった時、もう一度という気持ちはなかった。じゃあ、70歳までの8年間の計画はあったのかというと、それもなかった。

 考えてみると、偉そうに人生計画などと言うけれど、実はそんなものは存在していない。その時々の選択で今に至っているに過ぎない。いろんな節目が人生にはあるけれど、たまたま合格してしまったとかいうように、意外と何が何でもということはなかった。いろんなことがあって、地域新聞を始める時はかなり努力したし、始めてからの1年間は必死だった。人生の中で本当に努力したのはこの期間だったのかも知れない。

 曲がりなりにも生活できたのは、カミさんのおかげであることは間違いない。教員時代以外はいつもカミさんの方が収入は多かった。今も我が家の収入がいくらなのか、蓄えがあるのか無いのか、私は知らないし知らない方がいいと思っている。カミさんには感謝しているが、世の中の主婦がダンナに抱いているものと同じだろう。

 3月に受診したら、そのまま入院し手術となってしまい、全く考える余地も無いままにサイボークになってしまった。私は自然のままに死を迎えたいと思っていた。臓器移植までして延命する道は進まないつもりだった。ペースメーカーは臓器移植ではないけれど、機械を身体の中に入れて心臓の働きを助けるのだから、これはもう立派なサイボークだろう。あれよあれよという間だったから、これも運命と言うべきなのかも知れない。

 子どもたちやその家族の行く末、孫たちの成長、見守っていく義務と楽しみがあるけれど、どこまで続けられるか、不安は確かにある。高校3年になった孫娘が成人式を迎えるのは2年後だからまだいいけれど、3歳になる孫娘の成人式までは17年もある。まあ、成人式を見たからってどうってことは無いけれど、歳を取るとそんなことばかり考えるようになるのは不思議だ。

 今晩は、長女たちが誕生日のお祝いをしてくれると言うので、これから出かけて行く。

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去る者は追わず、来る者は拒まず

2012年04月15日 19時33分18秒 | Weblog

 昨日は結局、午後3時から「桜の宴」となった。参加者は大人男性8人、女性11人、子ども5人、合計24人。昨年よりも8人少ないが、これは仕事や町内会の行事などで出られない家族がいたことや、やはり年齢から「歩くのがつらい」とか、「健康上お酒が飲めない」という理由だった。たまには大勢で集まって、飲み食べて楽しもうというわけだから、去る者は追わず、来る者は拒まずである。川面の花いかだが美しかった。(写真)

 春の「桜の宴」、夏の屋台、秋のバス旅行、この3つの行事を続けるようになってもう何年になるのだろう。そろそろ止めようかという話は出るけれど、「やれるうちは続けよう」ということになってしまう。昨日も私たちの仲間の娘さんである30代の主婦が、買い物を手伝ってくれた。そんな風に主となる人が交代していくし、宴会をしていたら、たまたまマンションの知り合いが通っていくから、呼び止めてすっかり輪の中に引き込んでしまった。

 また、仲間の知り合いである韓国料理の店のママが、昨年から小学生の息子と一緒に参加してくれるようになった。いわば、手作りの国際交流である。彼女は手製のキムチを持参してくれたし、女同士の悩みはどこも同じなのか、女性軍も大いに盛り上がっていた。また、急に引き止めてしまった男性も最後まで付き合ってくれ、「いや、楽しかったです」と言ってくれた。酒が飲めないと心を開くことができないことは寂しいけれど、まあ、どんなきっかけであれ、人と人とが警戒心もなく話せることは嬉しい。

 今朝の新聞を見ると、枝野経済産業大臣が福井県庁で西川知事に、関西電力の大飯原発の再稼動への理解を求めた記事が1面トップに載っていた。先日も書いたけれど、枝野大臣は「原発の再稼動は現時点では私も反対」と、民社党の福島党首の質疑に答えていた。また、13日の委員会でも「できるだけ早く原発依存から脱却し、原発への依存をゼロにしたい」と発言している。その人が、「原発を今後とも重要な電源として活用していくことが必要」と述べている。

 理解を求められた西川知事は、「関西の膨大な電力消費を福井県は支えてきた。関西の消費者はそのことをわきまえて欲しい」と、大阪市の橋下市長や滋賀県の嘉田知事らが脱原発を主張していることに苦言を呈している。それは当然にも、大飯原発の地元である福井県は再稼動に賛成であることを意味している。原発の再稼動へ向けて、準備は整ったというわけだ。

 だからこそ、橋下さんが率いる「大阪維新の会」への期待は大きくなってしまう。民主党を支持して政権交代に希望を見出そうとした人々は、民主党が主張した政策、コンクリートから人へや、子ども手当てや、高速道路の無料化や、政治の透明性など、もっとたくさんのことに賛同した。全部できなくても1つでもいいと思っていた。しかし、全く逆だった。増税はする、原発は稼動する、予算は膨らみ国債は最大になる。民主党への期待は一気に消滅した。「維新の会」が「脱原発」を掲げれば、民主党を支持した人々の何割かは、「維新の会」を支持するだろう。

 「去る者は追わず、来る者は拒まず」でいいと思う。自分が何を政治で実現するのか、その原点に立ち返り、再出発する時だと思う。

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「桜の宴」開かれる

2012年04月14日 13時56分13秒 | Weblog

 朝、雨が降っていたから、やっぱり「桜の宴」は明日に延期だなと思った。すると午前8時過ぎ、「みんな、もう集合している」と電話が入った。午前10時に再び集合し、予定通り段取りにかかると言う。「雨は大丈夫なの?」と言うと、「絶対晴れる。もう西の空は明るいでしょう」と極めて楽観的だ。午前10時に集まった時は確かに雨は一時上がっていた。いつもの会場へ出かけていって、ブルーシートを敷き詰める。周りに人は誰もいない。午後2時30分にマンションを歩いて出発し、会場には3時に到着する予定だ。先発隊が用意したバーベキューセットはきっと火が起きているだろう。それで、宴会が始まる。そんなわけで、今日は書けるところまでで終わる。

 昨夜遅くに、卒業生から電話があった。「クラス会の返事は先生が一番だったよ。それで、元気にしてるかと思って電話した」と言う。私が初めて担任を持った時、彼は留年して、1年生のクラスにいた。私はまだ一人者で長屋生活をしていた。丁度彼の家と学校との間に私の長屋はあったので、彼は毎日のように寄ってから帰って行った。玄関の左に畳1枚ほどの台所があり、キャベツの千切りとコロッケとか、お金があれば肉を炒めておかずにしていた。彼はキャベツの千切りは初めて食べたと言う。男の一人暮らしを彼は面白がっていた。彼は私が持っていた大江健三郎の『見るまえに跳べ』を熱心に読んでいた。私の6畳一間は、彼の図書室兼くつろぎの部屋だった。

 彼が高校3年の正月、陶器会社に勤めていた彼の父親は凍りついた路面に足を取られ、頭を打って亡くなられた。彼は念願の自動車会社のデザイン部に入社し、彼女を連れて遊びに来て、やがて結婚して子どもも生まれた。彼の住まいに一家で泊めてもらったこともある。彼も一家で毎年遊びに来ていた。教師と生徒というより、兄と弟のような付き合いだった。彼は自動車会社を辞め独立して会社を創った。私はよく知らなかったけれど、その世界では有名なデザイナーになっていた。何が原因なのか、離婚し、会社はつぶれ、病気で悲惨な運命を辿るようになる。年賀状も電話も来なくなり、どうしているのだろうと思っていた。

 どんなに遅くなっても、春になれば桜は咲き、やがて散っていく。それは止められない。人もまた、良い時もあれば悪い時もある。人生、良い時ばかりが続くわけでもないし、悪い時ばかりが続くわけでもない。彼が言うように、「そんなものじゃーないの」と私も思う。さて、時間が無くなってきたのでここで終わろう。桜の写真が撮れたら、載せることを忘れないようにしよう。

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「真摯」はどこへ行ったのか

2012年04月13日 17時54分48秒 | Weblog

 今朝、朝日新聞の広告を見てビックリした。『Allen』というフリーペーパーの記事を以前に見たことがあったからだ。確かめてみたくて探した。『リビング』というフリーペーパーが7日に発行したものとウリ二つだった。『リビング』の見出しは「転勤ミセスのための名古屋案内」で、『Allen』は「転勤ミセス必見!名古屋の名所、知ってりゃーす」と違うが、中見出しと本文は全く一緒だ。使っている写真も同じ、レイアウトもほとんど変わらない。

 『リビング』の次のページを見ると、見出しは「名古屋三景」とあり、「他県の人を案内して喜ばれたスポットは?」というので、1位名古屋城、2位東山動植物園、3位名古屋港水族館が載せてある。『Allen』の方は、「王道中の王道、名古屋の3名所から旬な話題が届きました」とあるが、名古屋城、東山動植物園、名古屋港水族館は使っている写真も文章も全く同じである。『リビング』では3ページに「栄三景」が載っているが、『Allen』では2ページの下段に載せてあり、写真も本文も同じだ。

 『Allen』は編集・発行がアレン・プロジェクト、『リビング』は名古屋リビング新聞社である。情報元が同じだと思うけれど、レイアウトも本文も同じというのは恥ずかしい。『Allen』の方が先に、編集ができていたとしても、『リビング』の記事を見たら、どんなことをしてでも編集を変えるだろう。先に発行した方が有利なのは出版の世界なら当然のことだ。もし、知っていて発行しているなら、編集者は恥を知らない人だ。

 北朝鮮が今朝、ミサイルを発射したけれど、結果は失敗だった。北朝鮮の威信をかけたミサイル発射だっただけに、関係者の落胆は大きいだろう。中でも、発射の総責任者は「腹切り」をも覚悟しなくてはならないだろう。ロケットを飛ばすというのは、そんなに簡単なことではない。アメリカでもロシアでも日本でも、何度も失敗している。こんなことにお金をかけることを諦めた方がいいと指導者は思わないのだろうか。

 大飯原発の再稼動についての、政府の関係閣僚による会議がテレビで映されていたけれど、「安全性がおおよそ確保された」と言える厚かましさには驚く。良心というものがないのかとさえ思う。日本人は「恥」をどこへ忘れてきたのだろう。全く違う政党が、「消費税10%増税」では一致している。「だから一緒にやろう」と片方は言い、「お前は言っていなかった」と片方は言い返してケンカしている。

 「真摯」はどこへ行ったのか。「命を懸ける」とは「真摯である」ということではなかったのか。

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桜と酒とミサイル

2012年04月12日 18時44分02秒 | Weblog

 暖かな春の陽気となった。桜は満開を過ぎ、風に乗って花びらが舞う様は見事だ。我が家のチューリップも花は咲いてきたけれど、今年はいっせいに揃うことはないようだ。明日の夜から天気は下り坂で、土曜日は雨になると予報されている。今度の土曜日は「桜の宴」が予定されているけれど、これでは日曜日に延期しなければならないだろう。

 カミさんは友だちと会うというので、ひとりで過ごすことになった。余りに陽気はいいのに、井戸掘りもなく、せっかくの陽気だからと、気になっていた鉢の植え替えを行った。いつの間にか、鉢植えの草木しかない我が家なのに、その鉢に鳥が種を落としていったのか、それとも植木のどれかの種が落ちたのか、知らない草木が育っているので、それを1つずつ鉢に移して育ててみようと思ったのだ。

 こうした草木を相手にする作業は、大して重労働ではないし、何も考えることもなく、手を動かしていれば出来上がる。そんなに夢中になったわけではなかったのに、3時間も続けて作業をしてしまった。やっぱり腰や膝が痛い。それに疲れるほどのことでもないのに、なぜか疲れた。心臓への負担が大きいのだろうか、いや自分が思っている以上に年老いたということなのだろう。

 テレビでは北朝鮮からのミサイルをどう打ち落とすかを延々とやっていた。自衛隊やその関係者にとっては、願ってもない訓練ができたと思っているだろう。石垣島や沖縄の島民は、これをきっかけに自衛隊が駐留することにならないかと心配している。有事がないと軍隊は疎まれるが、こんなことが続くと日常的な警戒が叫ばれ、自衛隊の増強も現実的になってしまう。

 北朝鮮は人工衛星の打ち上げだと言っているけれど、そうだとしてもミサイルがどこまで飛ぶかは各国にとっては脅威である。衛星の代わりに核爆弾を乗せることは可能だろうから、どうしても北朝鮮の技術力を知っておきたいのだ。北朝鮮にすれば、これだけの技術力を持っていると示すことで、生き残りを図りたい。指導者というのは、実に愚かだと思うけれど、私たちは皆それに従っているのだから、大した差はない。

 1961年4月12日、ソ連は宇宙船「ボストーク号」を打ち上げた。初めて人間が宇宙へ飛び出し、108分で地球を1周してどこかの畑に無事帰着した。「ボストーク号」に乗っていたのはアレクセーエビッチ・ガガーリン空軍少佐だった。彼の言葉、「地球は青く美しかった」は有名になった。宇宙開発に遅れを取ったアメリカはその20年後に月に降り立ったが、今は宇宙開発から撤退している。

 軍事目的は充分に開発されたということだろう。宇宙へ莫大なお金をかけて飛び出したところで利益がない。月の地下資源の探索も行われたりしたが、その利用方法は現実的ではなかったのだ。日本も衛星を打ち上げている。いつでも軍事目的に使える技術を持っているのだ。イランも軍事力を強化しようと躍起になっている。核とそれを飛ばすロケットを持つことが国の力なのだ。

 煌々と輝く月を眺めながら冷たいビールでも飲む方が、人はもっと大きな幸せになれる。桜の下でわいわいやりながら飲むお酒もいい。そういう幸せを知らないのだろうか、知っていても本当は分かっていないようだ。

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クラス会の案内

2012年04月11日 17時58分27秒 | Weblog

 雨が降っている。黒いアスファルトの上に桜の花びらが貼り付いてきれいだ。私は何もすることがなく、本を読んでいた。すると午前も午後も、1時間もすると急に睡魔に襲われた。そんな時は躊躇せずに布団に入って眠る。この頃見る夢は井戸掘りばかりだ。夢というよりも、寝ながら、ああでもないこうでもないと、思い描いているのだろう。

 こうしたいという希望が何かの都合で実現しなかったり、延期になってしまったりすると、それは仕方のないことなのに、必要以上に落ち込むことはよくある。誰でも、いつでも、順調に希望通りことが運ぶなどということはない。だからこそきっと、他の力にすがりつきたくなるのだ。宗教とか、占いとか、運勢とか、何でもいいから元気付けて欲しいのだ。

 小学校の同級会の連絡が来た。案内の封書の中に、「2012年幹事会からの素敵なプレゼント」というカコミがあった。卒業記念文集の復刻版を出席者に配布することと、小学校のジオラマを80インチの大型スクリーンで見せるという。卒業記念文集があるとは知らなかった。どんなことが書かれているのか、懐かしく思うと共にちょっと気になる。

 小学校を卒業して55年にもなるのに、大事に残していた人がいたことに感心してしまった。そういえば今朝、中学校のクラス会の役員から、「これまで、どうやって開いてきたのか、教えて欲しい」と電話があった。どうやってもいいのにと思うけれど、初めて呼びかける人は不安に思うから電話をしてきたのだ。先回の幹事としては質問に答える義務がある。

 故郷に住んでいるクラス会幹事の経験者に聞いてもらえば、キチンと教えてくれるだろう。そのことも会った時に話そう。中学の時の担任は異常なほど几帳面な人だったので、クラス会の日時や場所・参加者名の記録を残してくれていた。それに在学中か卒業してからか、文集も作った覚えがある。表題は『麦の歌』だった。誰か持っていないだろうか?

 私が高校の教師になった時に3年生だったクラスからと、翌年に初めて担任したクラスから、相次いでクラス会の案内が来た。3年生だった子どもたちとはわずか4歳しか差がなくて、まるっきり私の方が子ども扱いされていた。授業は一度もしたことがなかったけれど、体育祭や文化祭、卒業作品づくりなどで親しくなったような記憶がある。

 初めて担任をしたクラスの子どもたちの時に、私は結婚したので、子どもたちもよく家に遊びに来た。私は自分が中学の時の担任がやってくれたことをそのまま行っていた。まだ、給料が安かった頃だったから子どもたちが来て、食事をしていくとかなりの出費になったのか、カミさんは嘆いていたようだった。

 初めて担任した子どもたちも今年は60歳になる。案内の往復はがきには『還暦クラス会』とあり、「お互い、いい人生を歩んで来たと思います。2回目の人生の出発点をみんなで祝いましょう」と呼びかけている。声をかけてくれるだけでも嬉しいことだ。生きている限り、必ず出席しようと思う。

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