友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

祭りの原点

2012年10月20日 19時32分47秒 | Weblog

 私たちが加茂川の堤に陣取ったのは午後3時半過ぎだった。「川入り」のためにだんじりが勢揃いを始めるのは午後4時ごろからと聞いたけれど、一向にその気配はなかった。待つのは長い。太鼓の音が聞こえてきて、だんじりの頭が見え始め、それでもまだかまだかと待っていると、いよいよ幾台かのだんじりが姿を現し、人のにぎやかな声が響くようになる。堤防から対岸の河原に下りていくだんじりもあれば、橋を渡ってこちらにやってくるだんじりもある。私たちのいる場所から近い、堤からだんじりが何台か河原に下りてきて、河原で気勢をあげ、それぞれの位置に止まって「川入り」に備える。

 私たちの目の前、5から6メートルくらいのところに「日明」という地域のだんじりが止まった。そして、だんじりを担いでいたひとりの若者が千鳥足でやって来た。かなり酔っ払っている。私が座っているコンクリートの傍まで来て、ひっくり返りそうになったので、私は思わず手を差し出して若者の腰を抱えて座らせた。若者は「ありがとう」と言い、ニヤッと笑って、「おっちゃんはいい」と言って抱きついてきた。それが縁で、すっかりこの酔っ払いの若者が私の隣の席を陣取ってしまった。

 「おっちゃん、だんじり担ぐか」と言うので、私は酔っ払いの若者と一緒に立ち、だんじりに触らせてもらった。若者は独身だったけれど、彼の先輩という家族が彼の招きで私たちの席の前に陣取った。若者が次々と仲間を呼び寄せてくれて、目の前に大きな集団が出来たのだ。「川入り」前にここで夜の食事をするのか、おにぎりやらつまみやらが広げられ、酒宴となった。若者の先輩という、キリッとした男が隣の女性に「ビール持ってきて」と言い、そのビールを私たちに手渡してくれた。「祭りじゃけん、飲みん」。

 「西条のだんじりはどうかね」と聞く。「これだけの人がよく集まるね。2日間も練り歩いて来たんでしょう。だんじりも見事だけれど、祭りにかける気持ちがすごいね」と答えると、「西条の人間は祭り馬鹿じゃ。祭り馬鹿と言われるのが一番嬉しいんよ。おじさんは分かるね。いい人だね。一緒に飲もう」と、今度は日本酒の茶碗飲みだ。みんな陽気で酔っ払っている。食事係りだったという女性はその役目を終えた開放感からか、完全に酔いが回っていた。九州の博多の生まれというが、だんじりに魅せられここで結婚してしまったらしい。

 先輩の男と隣の女性は夫婦で、子どもは3人いて、一番上の小学4年の娘さんも今夜は川に入ると言う。とてもホットな家族だったので、「同級生で大恋愛の末に結婚した?」と聞くと、カミさんの方が、「4つ上で、すごく格好よかったの」と答えてくれた。どこの誰かを知らなくても、家族の話や恋愛の話や仕事の話など、短い時間だったのにまるで昔からの知り合いのように、酒を酌み話が出来た。ここに集まった人たちが心を開いてひとつになる、そんな気持ちにさせてくれた。

 日本の祭りの原点と昨日は書いたけれど、世界中どこでもこんな風に人は人と仲良くなれる。それが祭りの良さなのだろう。

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秋川雅史さんに会えた

2012年10月19日 19時01分24秒 | Weblog

 姉が「どうしても会いたい」と言っていた秋川雅史さんにはどうすれば会えるだろうか。「秋川君は私の後輩です」と言った宿の支配人の話では、「16日の朝、西条高校の前にだんじりが揃います。そこで朝食を摂るので、そこへ行けば会えると思いますよ」ということだった。15日は西条市で宿が取れなかったので、今治市で泊まった。今治のホテルからタクシーで駅に、そこから伊予西条までJRで行くのだが、1時間に普通が1本、急行が1本しかない。前日もそうだったけれど、結局急行を利用するしかないから、距離は近いのにお金はかかった。

 伊予西条駅に着き、出来るだけ早く西条高校前まで行くためにタクシーに乗った。交通規制があって近くまでしか行けなかったが、それでも82歳の姉を連れて歩くには助かった。高校は城の中にあり、その城の正門前で各だんじりが気勢を上げるのだが、77台が勢揃いをするには随分時間がかかるから、その間に食事をするという具合だ。この通りは官庁街で、その駐車場がそれぞれの休憩場になっていた。秋川さんのだんじりの名前は分かっていても、それがどこにいるのか分からない。地元の人に尋ねると「38番だ」と言う。

 だんじりは順番に並んでいる。1台ずつ確認しながら歩く。あった。けれどもそこに秋川さんの姿はない。だんじりの後ろ側を見ると、ブルーシートが敷かれて人々が休んでいる。そこに高齢の婦人たちの姿が見える。秋川さんの登場を待っているのだ。姉に、「ここに居れば必ず秋川さんには会えるから」と言い、待つことにした。やはりこの選択は正しくて、しばらくするといつもテレビで観るパーマ頭の秋川さんが見えた。途端に周りの女性軍が動き出し、サインを求めたり、写真を撮る人が現れた。

 これなら、私たちがお願いしてもいいだろうと思い、姉の手を引いて秋川さんの前に行く。「名古屋から来ました。写真撮らせていただいてもいいですか」と声をかけると、「ええ、どうぞ」と姉の隣に立ってくれた。撮り終って私は礼を言い、握手する。そして、「姉さんも握手してもらったら」と姉の手を差し出した。秋川さんの熱烈なファンの割にはいざとなると身を引いてしまう姉なのだ。秋川さんは連日の祭りで少々疲れ気味だったが、気さくに応じてくれた。気の優しい人だと感じた。姉はもう有頂天で、「まさか一緒に写真が撮れるとは思わなかった」と言う。写真の顔を見るととても満足そうだった。ここまでやって来た甲斐があった。

 夕方は最大の見せ場である「川入り」を見るために、加茂川の堤防まで送ってもらった。そのクライマックスで私は日本の祭りの原点を味合った。「川入り」というのは、祭りを終えて神様が乗った神輿が川を渡り、神社に戻るのだが、その時、名残を惜しむ何台かのだんじりが川に入って神輿を引きとめようと、川の中でもみ合う壮大で劇的な場面である。私たちの目の前に、阻止組のだんじりの1台がやって来た。そして、だんじりに提灯を取り付け火を入れる。辺りはすっかり暗くなり、77台のだんじりに提灯が燈る光景は実に幻想的で美しい。しかも川面に映えるからさらに優美さが強調される。

 静かで幻想的な世界が一変するのは、いよいよ神輿が川を渡ろうと動き出す瞬間だ。静から動へと激しく変わる。両岸の観衆は総立ちになる。そういう祭りの場面も印象的だったが、そこで出会った人たちに私はもっと感動した。でも、この続きはまた明日にする。

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壮大な祭りに酔った

2012年10月18日 18時37分04秒 | Weblog

 西条市のお祭りは想像以上に壮大だった。それにしても、伊予の人々は本当に祭りが好きだ。この祭りは西条市の西側から東へと2日間ずつ移っていく。最後は隣の新居浜市の大太鼓祭りだと聞いた。10月10日から始まって、17日で終わるようだけれど、この間の1週間はほとんど毎日がお祭りで、そのため工場は休業すると聞いた。何しろ地元の人々は次々と祭りに入ってしまうので、操業を続けることが出来ないのだ。学校も西の方から順繰りに休校となるし、どこかで食事をと思ってもお店は皆閉店しているらしい。

 私たちが着いた15日は丁度、西条の駅前で何台かのだんじりが揃って気勢を上げていた。男たちは順番にだんじりを動かして上下に揺さぶる。どうもそれで町内の結束力を誇示しているようだ。周りには中学生と思われる女の子や小学生の低学年の男の子がついて廻っている。さらにもっと小さな子どもたちもいる。皆それぞれに、だんじりの組の法被やらTシャツやらを着ている。まだ、ヨチヨチ歩きの子どもでもそんな揃いの格好をして、ワッショイ、ワッショイとやっているが、実際はそんな掛け声ではなかったように思う。

 だんじりとは山車のことで、屋台でもある。神様の降臨を祝ってか願ってか、引き回し、神様に喜んでもらうための祭りのようだ。山車は天に向かってそびえるように高くなっているのは、神様は高いところに降りられると考えたからのようだ。そういえば全国どこでも山車は背が高い。そして出来る限りの装飾を施して華やかさを際立たせている。西条市のだんじりは現在77台あるそうだが、その多くは木彫り彫刻で、中にはこれに色付けをしたものもある。どうやら色付けしたものの方がお金が高いらしい。

 だんじり1台に2千万円かかるとタクシーの運転手さんは教えてくれた。では、祭りにつぎ込むお金はどのくらいになるのだろう。食事にお酒に衣装に宿に、その他いろんなものを合わせ、1台のだんじりに100人近くが関わっているようで、それが77台もあるのだから、相当な費用になるはずだ。それをいっきに使ってしまうのだから、祭りは気持ちがいいのだ。西条市のだんじりの数は増えているそうだ。子どもたちは学校で「俺んちのだんじりが最高だ」と自慢するので、だんじりのなかった町内もお金を集めて持つようになったらしい。

 祭りを垣間見て、私は子どもの頃を思い出した。春は赤い布で覆った山車が市原神社に揃い、夏は万灯を担いだ荒っぽい祭りが秋葉神社で、秋には別の神社で若者が馬を追う祭りが行なわれた。春は農耕の初めを、夏は雨乞いを、秋は収穫を祝うものだった。祭りの時は無礼講で、男たちは酒を飲み、女たちも押し寿司や煮物を食べておしゃべりしていた。祭りの太鼓が響くとなんとなく気持ちが昂ぶった。おそらく地域の団結とか結束力がいっきに高まる時だったのだろう。

 西条市の人々は、少なくとも2晩はほとんど眠らずに、だんじりを引き回すそうだ。それぞれの地域の神社に奉納する神事だからこそ許されるのだろう。その神社のお祭りを西側から順番に行なうと一体誰が決めたのだろう。さて、祭りのことはもう少し続けたい。何しろ姉の憧れの秋川雅史さんのことや地元の人とのふれあいもいっぱいあったから。

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写真

2012年10月14日 18時03分29秒 | Weblog

 アメリカ映画を見ていると、部屋の壁にいっぱい写真が飾ってある。アメリカに住む友人の家にもいろんな写真が飾ってあった。そのほとんどは家族の写真で、子どもたちの子どもの頃とか亡くなった祖父母とか、何かの記念写真というものである。日本の家は壁に釘が打てないせいか、そうした風習がないからか、仏間に家代々の写真が掲げてある家は多いのに、アメリカのように家族の写真が飾ってあるのは見たことがなかった。

 知り合いの家に上がった時、飾り棚の上にいろんな家族の写真が並べてあった。七五三の写真や成人式の写真、飼っていた犬の写真などがあった。中でもひときわ目を引いたのは、若い女性が小さな女の子を抱いている写真だった。エキゾチックな顔立ちで、瞳の美しい女性だった。女の子はちょっとはにかんでいたが、その女性と同じように大きな目をしていた。七五三の宮参りの帰りなのだろう。

 「お嬢さんとお孫さんですか」とたずねると、「カミさんと娘ですよ」と言う。そういえばカミさんに似ていると思った。40年ほど前の写真だろうけれど、若い時のカミさんの写真を飾っているのは、よほど気に入っているのだろう。家族の月日の流れが見て取れる。一昨日、姪っ子に会ったら、「お兄ちゃん、随分老けたね」と言う。そういう姪っ子だって54歳になる。赤ちゃんの時から見ているから、それにお互いに歳を取るので、年齢を気にしなかったけれど、こうして外で見ると、ああやっぱり歳を取ってきたと思う。

 私にはふたりの娘がいるけれど、誕生から高校卒業までのアルバムを、ふたりとも我が家に置いたままでいる。転勤が多いとか家が狭いとか、彼女たちなりの理由はあるのだろうが、ダンナたちには自分のアルバムを見せたのだろうかと思ってたずねると、「可愛いかったから、当然見せたわよ」とすまして言う。4歳違いの姉妹だけれど、同じデザインの洋服を着せて、いろんなところへ連れて行った。その度に写真を撮ったから、アルバムはそれぞれ10冊以上あるだろう。

 子どもの頃の写真を見るとどんな風に成長してきたのかよく分かる。「私が好きなのか今のあなただから、子どもの頃など知らなくてもいい」と言う男もいるかも知れないが、好きになったからこそ、幼い日々も知りたいと思うものではないだろうか。写真を見ることで、もっと相手のことがよく分かるということはあると思う。自伝に写真がなければ、興味は半減してしまうだろう。

 しかし、今はどこへ行っても記念写真くらいしか撮らない。写真を見ると、ますます老けていくのが分かるから撮らないでと言われてしまう。確かに老いてゆく自分を確認するのはいやなものだ。だんだん個人写真はなくなり、大勢での記念写真ばかりになった。明日から3日間、83歳の姉を連れて、愛媛県西条市のだんじり祭りを見に行く。やはり記念写真だけになるだろう。そんなわけで、17日までブログを休みます。

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EUにノーベル平和賞

2012年10月13日 19時00分06秒 | Weblog

 ノーベル文学賞が中国の作家、莫言氏に決まったのに続いて、ノーベル平和賞がEU(欧州連合)に贈られることになった。ノーベル賞という表彰の機構が、それゆえに政治的に働いたわけである。純粋にいろいろと評価して、毎年どこかに賞を贈っているようでも、そこには政治的な思惑が当然ながら存在する。私は莫言氏の作品を読んだことがないので、どんな人なのかと関心を持っていたが、記者会見で昨年度の平和賞の受賞者となった中国の人権活動家、劉暁波氏の「出来るだけ早く自由を得ることを望む」と発言しているのを新聞で知って、ずいぶん根性のある人だと思った。

 劉暁波氏は現在、国家政権転覆扇動罪で服役中である。中国政府から睨まれることを覚悟しての発言だろう。中国人の中にもこうした人が出てくるようになった。政権は共産党が独裁支配していても、社会は資本主義なのだから、いずれ共産党政権は終末を迎えるだろう。中国政府は日本の民主党政権と同じで、いかに政権の座に少しでも長く居続けるかと四苦八苦している。会社でもあるいは何かの組織でも、トップの座にある者(たち)は既にその座を占めるにはふさわしくないにもかかわらず、潔く退くような者(たち)はいない。

 時代が次のステップへと進んだのではないか、そう思わせてくれたのはEUだった。ヨーロッパは長い間争いを繰り返してきた。取ったり取られたり、殺したり殺されたり、平和な時の方が少ないほど紛争を続けてきた。ヨーロッパを1つの国にしようと連合をつくり、通貨も統一してさらに連合国家へと速度を速めようとしてきた。ところがギリシアに始まった欧州財政危機で雲行きが怪しくなってきた。財政に余力のあるドイツが中心となってこの危機を乗り越えようとしているが、当のギリシア国民はドイツに「出て行け」とデモしている。ドイツ国民の中には「怠け者のギリシアのために税金を注入することに反対」する空気も生まれている。

 せっかく1つの国をつくり、平和な時代を建設する糸口に立ちながら、まだ、それぞれの国の利益が優先されている。中国で日本企業への暴力行為が爆発し、欧州の企業は中国への進出をさらに進める機会と考えているだろう。日本のお菓子メーカーが中東に店舗を構える。欧州の家具や服飾が日本の銀座で売られている。資本主義社会では物品は国境を越えていく。物品ばかりか資本も国境などどうでもいいのだ。アメリカでお土産を買ったら、中国製だったということはよくある。韓国の会社だと思ったらアメリカ資本だった。技術もそうだ。アメリカを見習っていた日本の自動車はアメリカを追い越した。韓国や台湾の液晶テレビは日本を追い越した。

 EUに贈られたノーベル平和賞の賞金は、欧州債務危機の影響で今回から20%減額となり、9千4百万円だそうだ。とても欧州財政危機を救うことが出来る金額ではないけれど、国家の連合という形へ進む方向を多くの人々が支持していることは確かだろう。1歩前に進むためには何が必要なのだろう。

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マルク・シャガール

2012年10月12日 19時49分15秒 | Weblog

 松坂屋美術館で、『マルク・シャガール展』が14日まで開かれている。岐阜県美術館でも28日まで、別の『マルク・シャガール展』が開催されているから、この地方ではシャガールの人気は高い。シャガールが絵のうまい人かと言えば、何を持ってうまいと言うかであるが、私の観点からは否である。私はどうしても写実という点から観てしまうので、身体と手のつながりがおかしいとか、馬が馬の顔になっていないとか、そういうつまらないところに目がいってしまう。

 けれどもシャガールの青色は好きだ。それに独特の構図にも感心させられる。私がシャガールから一番感動を受けたのは、よく知られている作品のほとんどが1950年以降に描かれていたことだ。60代半ばからあの奇妙なバランスの絵を大量に描いているのだ。シャガールは1944年、ユダヤ人への迫害から逃れるために渡ったアメリカで先妻を亡くしているが、それから8年後、同じユダヤ人女性と65歳の時に再婚している。そのことが彼の創作活動に大きく影響しているようにみえる。ちなみに再婚相手は娘の紹介というから面白い。

 シャガールは1887年、現在のベラルーシのヴィテブスク郊外のユダヤ人居住区で生まれた。ヴィテブスクの風景はシャガールの絵の中によく出てくるが、板を張り合わせただけの粗末な家々が建ち並んでいる。シャガールはこの町で絵の勉強を続け、24歳の時にパリへ旅立ち4年ほど滞在している。この間に詩人アポリネールに出会い、かなり親密になっている。アポリネールは異端の詩人で、キュビズムの提唱者であり、シュールリアリズムの先駆者(?)と私は思っている。

 パリで、そうした超個性的な芸術家たちに出会ったことはシャガールの絵に大きな刺激だったと思う。比較的初期の作品である「私と村」(1911年)や「バイオリンひき」(1912年)そして「ワイングラスを持った二人の肖像」(1917年)などは、筆遣いにキュビズムっぽいところがみられる。1915年に描かれた「誕生日」は、花束を持つ女性ベラにシャガールが飛び上がってキスをしているところを描いているが、シャガールの首は日本のろくろく首のように長く不自然だ。けれど、シャガールの絵という意味ではまさしくこうした作風のものを指す様になる。

 ものの大小や遠近などにとらわれず、あるいはシュールリアリストの画家たちが場所や時空をごちゃ混ぜにしたように、シャガールはまるで子どものような天真爛漫さで作品を作り上げている。それが70歳過ぎの年寄りとなってからなのだから驚かされる。いや、むしろ、私たち高齢者もシャガールを見習うべきだろう。旺盛な探究心と想像力を発揮して、我武者羅に生きていっていいと思う。シャガールが著名な日本人から土産に墨と筆をもらった時、彼はそれを受け取ると自室に入ったままいつまでも出てこなかったそうだ。客人がいることも忘れて、その墨と筆で創作に夢中になってしまったという。笑って収めて欲しい話だ。

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家についての思い

2012年10月11日 18時53分19秒 | Weblog

 アメリカのカリフォルニア州に住む友だちの親族は民主党支持しているので、今度の大統領選挙を心配している。その80歳近い友だちのお姉さんの一家は、オバマ夫妻と一緒に写っている写真を大事にしているし、自慢でもある。お姉さんは一人暮らしだけれど、娘夫婦のすぐ近くに住んでいる。「家も何度か変わった」という話から、アメリカ人の家に対する思いと日本人の家に対する思いは大きく異なることが分かった。

 日本では、家を構えて一人前と言われてきた。マンションが出始めた頃でも、1軒家を持ってこそ男と言われた。どうしてそんなに家にこだわったのかよく分からないけれど、家を造り、守っていくことが男の努めであるように言われ続けた。土地を手放すなどはもってのほかで、それは「田分け者」のすることであった。代々受け継がれた土地を守り、さらに広げていくのが男の甲斐性と教えられてきた。

 アメリカ人であるお姉さんは、結婚した頃は多少狭くても快適な家を、そして子どもが増えて子どもたちの部屋のある家を、次に子どもたちが巣立ってしまうとふたりで暮らせる小さな家を、さらにひとり暮らしに適した家を、買ってはあるいは家賃を払って、移り住んだ。家は一生住み続けるものではなく、手放して買い換える資金にするので、いつも大事に使っている。その方が高く買ってもらえるからだ。

 アメリカではあまり新築の家を見なかった気がしたけれど、そういう事情だったのか。そういえば、ヒラリー・クリントンの自伝を読んだ時も、とても気に入った中古の住宅を見つけて喜ぶところがあった。お金が無いから中古の住宅を買うのかと思ったけれど、そうではなくて、そうする方が普通のようだ。アメリカ映画を観ていると、部屋を見に来て、その家を買うシーンがあるけれど、そんな風にして家を買い、自分で壁紙を貼ったりペンキを塗ったりして、自分の気に入った家にするのがアメリカ流なのだ。

 だから、アメリカのホームセンターには個人が何でも出来るような品揃えができているらしい。器用な人はトイレやバスまでも自分で設置してしまうとも聞いた。マサチューセツ州のボストン郊外に住んでいる娘さんの家にはシカがやってくる。隣の家との間に仕切りもない。西部のお姉さんの家も仕切りには低い木が植えてあるだけだった。土地の大きさで隣とのトラブルはないのだろうか。

 日本では1軒の家が建つ面積が狭すぎる。40坪ほどの敷地に家を建てるとなるとどうしても隣と接してしまう。それにそんな狭い土地では、1百年2百年も続くような家は建てられない。小さな家がゴチャゴチャと建ち並ぶことになる。それが日本の文化と言えるし、日本人の価値観とも言えるが、文化も価値観もいつまでも固定されているわけではないから、またいつか、違っていくと思う。

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世界3大悪妻って

2012年10月10日 21時57分42秒 | Weblog

 「彼はお茶にはうるさいの。葉はどこどこのものがいいとか、葉を入れる前には器を温めておけとか、とにかくこだわるから、『そんなに言うのなら自分でやって』と思って、私は一切手を出さないの」。「ええ、それで、アナタの分まで入れてもらっているのでしょう」と茶々を入れると、「もちろんそうよ」と言う。こんな風に、小うるさいことをいうダンナに対して、カミさんたちの方が上をいくようだ。

 私の知っているダンナたちは、お茶やお酒そして肴なども自分で用意してしまう人が多い。それでダンナたちは、自分のお茶の入れ方に、あるいは肴の料理に、小さな自慢と優越感を味合っている。ダンナたちの自尊心をちょっとくすぐるだけで、カミさんたちは動くかなくても美味しいものが食べられる。まあ、これで夫婦円満ならそれでいいだろう。

 昨日、つまり10月9日は、ロシアの文豪トルストイの誕生日だった。トルストイは1828年生まれだから、極端な言い方をすれば2百年も前の人だ。私が初めてトルストイを読んだのは小学校6年の時だと思う。学校図書館にあった「キリスト教的な愛による人の道を説いた」とか解説のあった少年少女世界文学全集だった。私はストウ夫人の書いた『アンクルトムの小屋』を読んで、キリスト教に関心を持っていたのでトルストイを読んだのだと思うけれど、それが何だったのか覚えていない。説教じみているという印象しか残っていない。

 還暦を過ぎて、トルストイの『アンナ・カレリーナ』を勧められて読んでビックリした。トルストイが文豪と称される意味が分かった。この小説はひとりの女性の物語だけれど、その当時のロシアの現状、農奴を解放しようとする貴族や自分たちの地位を維持しようとする地主を根底で描きながら、真実の愛を求めて夫や子どもの下を去っていく、壮大な社会派ドラマだった。私が子どもの頃に感じたものはどこにも見当たらなかったから、トルストイの意図とは別に子ども向けに書かれたものだったのだろう。

 ところでトルストイのカミさんは、ソクラテスのカミさんとモーツァルトのカミさんとともに世界3大悪妻といわれているけれど、なぜそんな風にいわれるのだろう。トルストイは高齢になってから家出をして、どこかの駅で息絶えた。だからきっと、カミさんの元から逃げ出したかったのだというような解釈が生まれたのかも知れない。それが真実だったのか否かは知るよしもないけれど、確か、トルストイのこの晩年を描いた映画があったと思う。ぜひ、観てみたいものだ。

 夫婦はもともと別の人格であるけれど、縁あって一緒に暮らすようになった男女である。好みも考えた方もそれぞれ違っていたのだけれど、長い年月が作用していくらか似てくるものだ。それでも完全な一致などありえないから、どこかで対立することもある。埋められない溝があっても目をつむるしかないし、他の異性に惹かれるのも仕方ないだろう。世界3大悪妻と言われたカミさんたちだって、ダンナたちに言い分があるように、さらに多くの言い分があるだろう。

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神に近づき過ぎない方がいい

2012年10月09日 19時21分12秒 | Weblog

 京都大学の山中伸弥教授に、ノーベル医学生理学賞が贈られることなった。以前からノーベル賞は間違いないと言われて来たけれど、やはりそうかと思った。山中教授は、皮膚などの体細胞から、様々な細胞になりうる能力を持った人工多能性幹細胞を作り出すことに成功したのだから、「革命を起こした」と言っていいだろう。受精卵が分裂を繰り返しながら、それぞれの機能を持った細胞を作り出していく。その最初の細胞を人工的に作り出すことに成功したのだから凄い。

 病気の仕組みが解明され、新薬が開発される道筋が出来たと言われている。私などのような凡人は、頭のよい人への僻みがあるのか、そんな風に何にでもなれる細胞が出来るようになると、そのうちに病気で亡くなる人はいなくなり、人間はますます地球に増え続けることになる。いや、そのうちによい人しか社会にはいなくなるのかも知れないなどと、飛躍して考えてしまう。確かに難病を抱えた人は一刻も早く、病気から解放されたいと願うだろう。臓器移植や不妊治療や、これまで難しいとされてきた病気を克服する道が開かれるのかも知れない。

 いろんな人がいる社会であったけれど、全員が健康な美男美女で、よい人しか生まれない社会になっていくのだろうか。そうか、人工的に人間が作れるのなら、男も女の必要に応じて調整すればよいわけで、セックスなども不要になるのだろうか。人間を作り上げることが出来ても、「殺す」ことは絶対に出来ないから、ますます長寿社会になっていくのだろう。こんなマンガのようなことを言っているのも、iPS細胞のことをよく知らないからだろう。医学の進歩や新薬の開発に貢献できるらしいから、それを素直に喜ぶべきなのかもしれない。

 私の同年の人たち、あるいはもっと上の人たちは、あちらこちらと自分の身体の不具合に悩んでいる。歳を取れば当然どこか悪くなってくる。そのひとつ一つを治して、さらに長生きしたいと願っているかと言えばそうばかりではない。痛みや苦しみは嫌だけれど、苦痛がなければ長く生きていたいというものでもない。私が一番気にかかるのは、「死を受け入れる」「苦難を受け止める」「不幸を迎え入れる」ことが、最近なくなってきていないかということだ。子どもが出来ない、ガンになった、腰が痛い、目が見えない、耳が聞こえない、歯が抜けた、世の中にはいっぱい嫌なことがある。それを受け止めて乗り越えていくのが人生だ。

 そしていつか、人には皆、死が訪れる。それでいいじゃーないかと思う。まだまだ人の知識や知能は未熟であって欲しい。神に近づき過ぎない方がいい。

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高齢者と生活保護

2012年10月08日 20時23分46秒 | Weblog

 以前、手押しポンプを据付けたところが2箇所とも、台座の木材が腐食してきたので取り替える工事を行なった。工事の方法や扱う部品ひとつについて、仲間にはそれぞれの思いがあってスムーズに進まない。設計をした人は自分の設計に間違いないと言い、部品を作った人は部品に誤りはないと言い、いざ現場で作業にかかると両方共に問題があるのか、組み立てが出来ない。それで、どう進めるかを巡って熱心な議論となる。

 会社ではなくて、同好の士が集まっているから、誰がエライというわけではなく、誰が命令を下すというわけでもない。喧々諤々やりながら、どこかで折れてどこかで納得していくより他にない。いつものことなので、私はどちらにも加担せずにしばらく見守ることを常としている。そのうちにやはり最も常識的なところに落ち着くからだ。私たちは営利を目的としていないボランティアに近い団体であるが、だからいい加減な仕事でよいと思う人はいない。むしろ、依頼主に喜んでもらえる出来上がりにこだわっている。

 私たちの井戸掘り仲間は、平均年齢が70歳を越えているので、本当にいつまで出来るか不安だが、身体が動くうちは頑張ろうというのが暗黙の約束である。高齢者世帯は1986年には2,362千所帯であったが、20年後の2006年は8,418千所帯に急増している。ある人が言うには、「高齢者の20%が要介護を受けている」のだそうだ。さらに、「高齢者の男の健康寿命は73歳なのに平均寿命は79歳だから、6年間は不健康で生きているというか生かされている。医者の儲けのために生かされているのは我慢ならん」と憤る。

 だから「身体を動かして働き、健康維持に努め、あっさりとこの世におさらばしよう」と言うのである。しかも今、生活保護を受ける人が増えているそうだ。私たちより年上の人たちは、生活保護を受けることを恥と思う風潮がある。私の姉は83歳だけれど、ひとり暮らしを続けている。「他の人の世話にならないようにしなくては」と言うのが口癖だ。おそらく姉のような生活を送っている高齢者はまだまだいるだろう。

 ところが若い人で、働く場がなく、資産も貯金もなく生活に困窮している人は意外にあっさりと生活保護を申請するらしい。標準3人家族の場合、最低生活費の241,970円(横浜市)が保障されるので、それまでの給料よりも多い額を受け取るという矛盾も生まれる。医療費なども免除されるから、生活保護を受けた方が暮らしやすくなり、再び働く意欲を無くしてしまうと聞いた。そればかりか、65歳以上の人は労働することを求められないので、高齢者の生活保護はもっと増え続けるだろうと言う。

 ただ、存在しているだけでは生きている意味がないように感じるのは、まだ本当に辛い思いを味わったことがないからなのだろうか。それにしても、高齢者には生きにくい時代がもう目の前に来ている。何か、世の中のお役に立つことはないのだろうか。そういう名誉を与えられて、潔い最期を迎えられたらと思う。

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