友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「力は正義」ではなく

2012年10月07日 19時02分53秒 | Weblog

 小学校や中学校で、運動会や体育大会を4月に行なうところもある。9月は暑すぎて子どもたちが大変すぎることと、新学期早々にこうした全体の行事を行なえば、クラスのまとまりが早くから生まれると考えてのことだ。しかし、実際に行なってみると、クラスの誰もがよく分からないのでかえってまとまらないと言う意見もある。

 確かに練習風景を見ていると、9月の運動会や体育大会はきつい。高校はなるべく勉強時間を確保したいので、9月中に体育大会も文化祭もやってしまうところが多いようだ。私たちの頃は運動会や体育大会は10月半ばではなかっただろうか。この辺では一時期、運動会は平日に行なわれていたが、それでは子どもの姿を写真やビデオに撮れないというので、この頃は土曜日か日曜日に行なわれるようになり、地域の祭りのような役割になってきた。

 私の友だちの日教組嫌いは、「競争をさせないのはけしからん」とか「順位をつけないのは意味がない」とか、盛んに非難するけれど、実際の運動会では徒競走は相変わらず行なわれているし、騎馬戦や組体操なども続いている。1位、2位、3位の順位は付けられ、勝ち組と負け組に分けられる。力を合わせれば勝つことが出来るし、まとまらなければ負けてしまう。それを学ぶことの意義は大きいと私も思っている。

 肝心なことは、走るのが速い人もいるし遅い人もいる、運動神経がよい子もいるし鈍い子もいる。それらはみんな個性であって、それが優劣ではないことを脳裏に叩き込むことだ。みんなそれぞれに違いがあり、それぞれ価値を持っている、それをお互いに活かしていける社会をつくること、子どもたちがそう考えるように教育していくことが大人の務めだ。そのためには大人もキチンと、人と人の違いを認め、助け合うことだろう。

 「力が正義」という社会には人の優しさが感じられない。弱者はどうやって生きていけばいいのかと絶望的になる。先日、地下鉄に乗った時、若者がすぐに席を譲ってくれた。仲間のふたりが礼を言うと、「いいえ、皆さんの権利ですよ」と言い、「もし、譲らないようなヤツがいたら、ドケと叱ってやってもかまいません」と付け加える。なかなか過激なアンちゃんである。驚いたひとりが「そんなこと言って、ブッサと刺されたらかなわん」とつぶやくと、「みんなが助けます」と真剣になって言う。

 若者の好意はありがたいとは思うけれど、年寄りたちが皆、座るのは権利だと主張するような社会をよい社会だとは思えない。年寄りや目上の人に対して、何も考えず自然に席を譲ることの出来る社会の方が気持ちよい。年寄りも座るのが権利だとばかりに、わざと若者の前に立ってジロジロ見るような行為は卑劣だと思うような社会であって欲しい。他の人のことに心配りが出来る社会なら、助け合うことに何の躊躇もないだろう。力を誇示することのない社会でありたい。

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芸術はどうして生まれたのか

2012年10月06日 21時32分58秒 | Weblog

  玄関に花がないのは寂しい。鉢植えのバラで、花が咲いていたものを切り取り、ガラス瓶に活けた。玄関では暗くて写真が撮れなかったので、食卓に持ってきて撮った。四季咲きのバラは秋には心なしか花が小さく見える。家の中に生花があるのはいい。カミさんはドライフラワーに凝っていた時があったけれど、私は生の方が好きだ。花瓶に枯れかけた花が刺したままになっていると気になって仕方ない。

 家の中に花があったり、飾り物があったり、気の利いた絵がかけてあったり、そんな家に行くとその家の人の心配りが感じられる。大和塾の市民講座のお願いのために、代表とともに二科展へ行って来た。二科のデザイン部門で活躍している女性に、講師にピッタリと思う人がいるのでどうかという話をいただいたので、大和塾の活動を話し、講演していただく内容などについてお願いした。

 彼女の作品を朝日カルチャーで見せて貰ったけれど、小品だがとてもセンスのいい作品だった。居間に飾っておくのによい作品だと思った。私は二科に知り合いもいて、毎年見させてもらっているので余り驚くことはなかったけれど、代表は「展覧会は初めて」と言うだけに、作品の数や大きさやテーマに驚いてみえた。日展が東京芸大を中心とする写実的な作風なら、二科はこれに反発した画家が作り上げた団体なので、テーマも作風も自由である。

 日展の作家が技術や技法を競い合うように、二科の作家も技術や技法に挑戦するけれど、最も力点を置くのは作品の哲学なのかも知れない。何を表そうとしているのか、作者は意図を持って作品を作るけれど、出来上がった作品は言葉で語るものではないので、鑑賞者がどのように捉えるかは自由である。「なんだか、難しいね」と、代表はつぶやいていたけれど、音楽だって絵画だって、感じればいい。自分が気に入った作品をそのまま、「いいね」と受け止めればいい。

 芸術はどのようにして生まれたのだろう。誰かが絵を描いた。それを見た人が「いいね」と思った。誰かが歌を作った。それを聞いた人が「いいね」と思った。おそらくそんな簡単なことが出発点ではなかっただろうか。人が自分自身を意識するようになって、芸術はその役割を深めることになった。産業革命以後の科学の急速な発展は、芸術の分野にも大きな変化が生まれてくる。科学や心理学や数学や、そうしたもので芸術を解き明かそうともした。

 そしていつの間にか、まだ人のやらない方法で、新しいものを生み出すことが芸術の課題のように捉える傾向も生まれた。これに対して、人の本質に迫ることこそが芸術の目的であると考える人も現れた。いろんなものが錯綜する時代だからこそ面白いと言えるし、何をしていいのか分からないので苦しいとも言える。二科の会場で、久し振りにそんな芸術論を聞いて、なんだか若返った気がした。

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続けることが大事なこと

2012年10月05日 19時02分46秒 | Weblog

 話していると、ふと、この人は私のブログを読んでいてくれていると分かる時がある。とても嬉しくなるし、ちょっと恥ずかしくなる。私は年賀状に自分のブログの名前とアドレスを書いている。年賀状は毎年減らしてきたが、それでも250枚くらいある。年賀状を受け取った人でもブログに興味の無い人はいるだろうし、パソコンを持っていない人や操作が出来ない人もいるだろう。年賀状の交換はしていないけれど、ブログには興味を持っていてくれる人も、数は少ないがいてくれる。

 それにしても、毎日700件ほどの閲覧があり、200人くらいの訪問者があるけれど、一体誰なんだろうと考えてしまう。しかし誰であろうと、読んでくれている人がいる。今日はネタがないから辞めようと軽々しく決められない。花粉症で鼻水が出て、クシャミが止まらなくて、目が痒くて、何もしたくないと思っていても、何か、ネタを探さなくてはと思う。特に今日のように、家から外に出ない日は、ネタ探しは困難で、新聞を見たり、書棚の本を拾い読みしたりしている。

 先ほどから、高校3年の孫娘が来て、彼女が我が家のテレビに貯めておいたドラマを見ている。青春ドラマはどうしてあんなに怒鳴り合うのかと思うほど、大きな声で、テレビのある居間から離れた部屋にいるのに、すぐ傍で見ているように聞こえてくる。悪ガキどもが、熱血教師に出会って本来の自分を見出していくというドラマだ。「クズ」と言われている不良の高校生たちが、罵り、破壊し、殴り合い、見ている方はスカッとするだろう。ふつなら出来そうにないことが出来るから、まるで見ている方も自分がやっている気分なれる。男たちが好きな、戦争映画やヤクザ映画と同じだ。

 アホ臭い。そんなに現実は甘くない。ドラマのようにうまくいくようなら、陰湿な社会は存在しないだろう。いやそうではなく、現実が陰湿だから、ああいう熱血漢に憧れるのだろう。馬鹿だな、人々は、自分はヒーローにはならず、かといって悪にもならず、傍観者であり続けている。世の中はそんなふうに成り立っているのだろうけれど、だからなかなか理想へとは向かわない。まあ、それでも、悪いことは悪いと言い続けることだと思う。テレビニュースで、オスプレイの沖縄配備に反対している住民が、「反対してもなぜ聞いてもらえないの」と言っていたが、本当にそう思う。

 原発でも、オスプレイの配備でも、圧倒的な民意が反対にありながら、政治は逆の方向へ進んでしまう。なぜ、そうなるのか、その仕組みを明らかにしないと民主主義はただの形式になってしまう。さて、孫娘のテレビ観賞が終わったようなので、私のブログも今日はここまでにしよう。

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ご都合主義でごめんなさい

2012年10月04日 19時26分39秒 | Weblog

 真冬のように北風が強く吹き抜けている。あまりの寒さに、ルーフバルコニーの植木鉢たちの水遣りを諦めた。もし、このために幾鉢かの草木が枯れるようなことになったなら、私はその責任を負わなくてはならない。風がこれほど強くなければ、夕方の水遣りに出ることを嫌がることはないのだから、草木が枯れることがあったなら、水遣りをしなかったのではなく、風が強すぎたためだと責任を転嫁することもできる。

 世の中のタイプは2通りに分けられる。こうなったのは全て自分に原因があると、責任を抱え込んでしまうタイプと、全て他人や自然のせいにして少しも責任を感じないタイプだ。どちらがいいとか悪いとか、そんなことは言えないし、世の中にはいろんなことがありいろんな人がいるのに、2つのタイプしかないと言い切る方が間違っているのかもしれない。生き方としては、全てを抱え込む内向きよりも、何事も流してしまう方が楽だろうし、その方が周りの人々にとっても気楽だろう。

 今、はっきり覚えていないけれど、聖書の中の次々と災難に襲われる男がいて、初めは、これは神が自分に与えた試練と受け止め、自分の信仰が弱いからだと我が身を鞭打つ。しかし、あまりにも災難が続くのでとうとう神に対して、その非情を嘆き、神を呪う。誰だってあまりに不幸が続けば、どうして自分ばかりこんな目に遭わなければならないのかと言いたくなってしまうだろう。知人夫婦は、カミさんが乳ガンでダンナが胃ガンと分かり、続けて手術を受けた。続く災難にショックだったと思うけれど、今はふたりでフランスに長期旅行へ出かけたと思ったら、今度はイタリアへ行くと言う。ダンナの方はイタリア語の勉強まで始めている。

 本人の病気が次々と見つかっている知人もいる。配偶者にガンが見つかって落ち込んでいる人もいる。そうかと思えば、せっかく大学を卒業し、見込まれてさらに上の研究機関に進んだのに、うつ病になってしまった息子を持つ家族もいる。井戸掘り仲間の先輩は楽観論者で、「人生はいい時もあれば悪い時もあり、どちらも長く続かない。泣いて暮らすも笑って暮らすも人生なら、笑って暮らした方がいい」などと、水戸黄門の歌のようなセリフが口癖だ。

 私はキリスト教徒にはなれなかったけれど、人の力の及ばないものがこの世にはあると思っている。人にはそれぞれ、定められた道があるようにも思っている。神はその人にふさわしい人生を与えてくださっている。そんな風に考えれば、明日はきっと今日よりもよい日になるだろうと思えてくる。「本当に勝手な人」と言えるかも知れないが、それもこれも神が決めたことなのだからと自らに言い聞かせ納得している。しかしこれは、ご都合主義であることに間違いはないようだ。

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いじめ、差別、介護に共通するもの

2012年10月03日 18時48分13秒 | Weblog

 岐阜県可児市が『子どものいじめの防止条例』を制定した。2年前、同市で中学1年の女子生徒が、上級生に裸にされて写真を撮られる事件があり、市長はその時の選挙で、いじめ防止を公約に掲げた。滋賀県大津市でいじめ事件があり、全国でも初めての条例づくりを進めてきたのだ。可児市の市議には知り合いもいるから、どんなやり取りがあったのか、機会があれば聞いてみたい。

 今朝の中日新聞は、この『子どものいじめ防止条例』をかなりの紙面を使って取り上げていた。小学校の先生は「現場では、時間をかけてでも根気強く話し合い、いじめ解消を目指している」と言い、中学校の先生は「いじめた子の側に厳しい要請が出た場合、いじめられた側が報復を恐れることも考えられる」と言い、現場の難しさを語っていた。また、いじめを受けて自殺した子の親は「いじめは小さいうちに気付いて防げれば、皆がつらい思いをせずにすむ。本来は学校の中で解決できるのが一番だが、市全体で取り組む意思表示として大きな意味がある」と語っていた。

 ところがその記事の隣りに、『中3全裸にして撮影』の記事があった。滋賀県彦根市で、同級生の男子生徒に暴行を加え、カメラ付きケイタイで写真を撮って、皆が閲覧できるようにしたという。全くアホかと言いたい。私の小学校の時も、クラスのボスから「チンチンを見せろ」といったことがあった。中学3年生では大人になっているだろうから、ショックは大きいだろう。どうして人間は自分よりも弱い者をいじめたがるのだろう。広島では、11歳の女の子が母から殴られて亡くなっている。

 親になってみると分かることだが、親は子どもに対して絶対的な力を持っている。自分よりも力が強い者に自分のやり場のない気持ちをぶつけることが出来ないが、弱い者なら絶対的な権力を行使してしまう。10月1日の中日新聞の社説は、『介護労働』と『障碍者の差別』だった。そして今日の社説は『いじめ防止条例』であった。いじめ問題も障害者問題も介護問題も共通するところがあるように私は思う。それは弱者に対する暴力である。健常な人や元気な子どもは弱者が見えていないのだ。

 中日新聞の社説では「自分が他の人からやられて嫌なことは、やるな。これがいじめに立ち向かう基本的姿勢でしょう」と述べ、「差別をなくすには差別の実態を知らせ、知る努力が肝心だ」と言い、介護現場の離職が止まらないのはなぜかを掘り下げ、「今、必要なのは、介護業界の待遇と職場の改善だ」と主張している。子どもたちはふざけて遊んでいるつもりでも、それがとても苦痛になっている子がいることを知らなくてはならない。親は子どもに暴力を振るってはならない。ひょっとしたら、苦しい思いをしている人がいるかも知れないと、周りを見る余裕が欲しい。

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いざよいの月

2012年10月02日 19時10分24秒 | Weblog

 15夜お月さんは台風のために見られなかったけれど、昨夜の16夜の月は見事だった。さすがに秋の夜空になっていて、月の光は輝きを増していた。西洋でも、太陽神は男・アポロだけれど、月はそのアポロの双子の妹・ディアナである。中世にはキリストの母を描いた宗教画が見られるが、この聖母像は三日月に乗っている。月は女性の貞節や処女性を象徴するものとして描かれているのだ。満ち欠けするのに、なぜ月に清純なイメージを抱くのだろうか。

 夜は暗闇の世界だけれど、月の明かりで充分にものは見える。そればかりか、太陽のように暑くなくて、むしろ清々しい気持ちを与えてくれる。月光は神秘的で、厳かな雰囲気を持っている。それに月光は冷たく感じるけれど、女性の肌のように美しい。そんなことから月に女性を、太陽に男性を、対にして考えたのだろう。

 西洋では、月の呼び名が何通りあるのか私は知らないが、日本では形はどれも満月であるのに、「じゅうごや、いざよい、まつよい、もちづき」などの呼び名がある。満月に前のものを「じゅうさんや」と呼ぶのも実に情緒てきであるし、月が太陽と同じ方向にあって、暗い半面を地球に向けるために、月を見ることが出来ない状態を「朔(さく)」と呼ぶのも面白い。『月に吠える』を書いた萩原朔太郎の「朔」は、一のことで長子を意味している。

 16夜をなぜ「いざよい」と呼ぶのだろう。「いざよふ」を古語辞典で調べてみると、「ぐずぐずしてはやく進まない。ためらう」とある。16夜が現れるのは15夜よりもかなり遅れるからだが、なかなか味のあるネーミングだ。日本語にはこのような表現が多く見られるのは、やはり自然への観察が行き届いていたからだろう。この歳になって、日本語の深さに感心させられている。

 今になって、勉強不足だったことを悔やんでいるが、数学が論理学だと分かったのは高校生になってからで、それから数学に取り組むには時間が無かった。たとえば、これはどこかの問題であったと思うが、「偶数と奇数を足すと奇数になるのはなぜか」という問にどう答えるだろう。偶数と偶数を足せば偶数しかない。奇数と奇数を足しても偶数である。それでは偶数とは何かを見ればいい。偶数は「奇数+1」で表すことができる。そこで偶数(奇数+1)+奇数は常に1が残るので、奇数になることがわかる。

 物事を情緒的に考えてしまう私とは違って、論理的に考えるカミさんは上記のように答えを引き出してくれた。おそらく人間の歴史に貫くものも論理的なのだろうけれど、人間の情緒性が論理的なものを押しやってしまう時が歴史にはあるようだ。第3次野田内閣が発足したけれど、野田さんはいつも「的確に」とか「決断する政治を進めることが国民の負託に応える唯一の道」と言う。しかし、論理的を装った情緒的な演説でしかないのは残念だ。

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万葉の人々の恋心

2012年10月01日 21時15分46秒 | Weblog

 台風で、花粉など飛ぶはずがないのに、相変わらず左目が痒い。眠っている時が一番痒いのか、ついこすってしまうので、朝には目が真っ赤になってしまっている。この時期の朝は大変で、クシャミを連発して恥ずかしくなる。皆さんは「爽やかな季節になりましたね」と、嬉しそうに挨拶されるけれど、私は身体もけだるくて元気がでない。そのせいなのフトンにもぐりこむと、朝でも昼でも夜でも、すぐに眠ってしまう。

 昨日の、友だちがくれた『それを止めれば健康になる』の要約の中に、そう言えばお酒のことは何もなかった。でも、会った時は、「毎日飲んでいるようだから注意しておかなくちゃー」と、例の「月曜日はNo Monday」の絵ハガキを送ったのだと言った。その時、「近いうちに会おう」と約束したけれど、お酒も飲まずに会うことはないだろうから、そうなると月曜日以外の日にしなくてはならない。

 先日、現代の短歌には恋の歌が見つからないと書いたので、「そんなことはありませんよ」とコメントが来るかと期待していたが、未だにない。ナンキンハゼの苗木が欲しいという人も出てこない。何気なく見ていたら、万葉集巻16の3877(というものらしい)に出会った。

 「くれないに 染めてしころも 雨振りて 匂いはすとも うつろはめやも」

 高校生の時に、もう少し古典の勉強をしておけばよかった。日本語なのに古文となるとさっぱりわからない。これが私のダメなところで、物心がついてから、分からないようなものを勉強する意味はないなどと、言いがかりをつけて勉強を放棄してしまった。英語がしかり、数学がしかり、物理がしかりだった。辞書で調べれば学ぶことは出来たはずなのに、めんどくさいなどと逃げていたのだ。

 「くれない」は赤であることは分かる。「染めてしころも」は染めた衣である。分からないのは「うつろはめやも」で、えっ、何、何なのと思った。それでもう一度読み直し、紙に書いてみると、「匂いはす」と「うつろはめやも」とは、こうだけれどこうだという形のように見えてきた。古語辞典で、「やも」を引くと疑問や反語の意を表すとあり、「であろうか、いや、‥でない」とある。「め」は「む」の己然形とあるから、「うつろはめ」は移ることと考えていいだろう。

 先の歌は、「赤く染めた衣は雨に振られて 匂いはするかも知れないが色褪せるだろうか、いや褪せないだろう」と、いう意味だとわかる。そんなことを歌にするはずがないから、もうこれは恋の歌としか考えられない。歌謡曲にもありそうな、「あなた色に染まられ私の愛は、いつまでも変わることがありません」ということだろう。読み人知らずの歌ということは、万葉時代の人たちにとって、歌つくりは日常とともにあったのだろう。

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