を読む。マックス・ヴェーバー著。岩波文庫。
資本主義が現在のような形になったのには、カルヴァンの「予定説」の影響が大きかった、という。すなわち、「人間がその死後、永遠の生命を与えられるか、それとも永遠の滅びを迎えるかは、神によって予め決められている」、という説だ。
この、神が決めた予定は、人間が生きている間どんなに努力しても変えられないもので、自分が神によって選ばれた人間かどうかは、カルヴァンによれば、ただただ「自分は選ばれている」という確信があるかどうかで決まる、という。神に選ばれたかどうかという差は絶対的なもので、選ばれなかった者を待つ永遠の滅びは、当時の人にとってはただ単に死ぬことよりもはるかに恐ろしいものだった。
日本の政治家がたまに「キリスト教は排他的」と発言して、なぜかマスコミが批判的に報道することがあるが、「排他的」という表現ではまだまだ甘いくらいだ。
カルヴァンのこの教えは美しいが、これでは一般の人々に受け入れられない。そこで彼の後継者たちは、マイナーチェンジを行った。「自分が神に選ばれているという確信に至るには、旧約聖書(特に箴言)の戒律に従って生きるべきだ」。特に重視されるのは労働で、集中的に労働を行うことによって結果的に富を得ることも許された。これが、当時の人々にウケた。
反面、余暇や芸術は軽視される。そんなヒマがあれば働け、というわけだ。このため、ヴェーバーによれば、アングロサクソン系の人々の芸術作品は、ラテン系の人々のそれに比べると、無味乾燥な感じがしてしまう、という。
このように、資本主義の根底にあるのは絶対的な恐怖だ。それを隠すために、日々の労働は行われる。フロイトが「幻想の未来」の中で言っているように、強迫神経症的(何かを隠すために、それと無関係な行為を執拗に繰り返す)なものだ。
また、ヴェーバーは言う。このような資本主義という大きなシステム自体、実は非合理的なものなのだ、と。いや、呪術的と言ってもいいだろう。何しろ、永遠の生命などという途轍もないものがかかっているのだから。
・・・・・・以上は、昔の話だ。現代では永遠の生命ではなく富の蓄積が労働の目的になってしまい、キリスト教はどこかに消え去ってしまった。ヴェーバーの表現によれば、資本主義という「鉄の檻」が残っているだけだ。
彼は1920年に亡くなっているから、その後のアングロサクソン系の人々による映画産業や、ジャズ、ロック等の音楽産業の発展を知らないことになる。少なくとも、旧約聖書の戒律から離れたおかげで、これらの現代アートをわれわれは檻の中で楽しむことができる。