「 アドラー本 」 が出たのか。
哲人と青年の対話ねえ。この哲人は、ふだんどんな仕事をしているのだろうか。ていうか、青年ではなく哲人に学校の先生をやらせるという展開は、ないのか。どうも彼は、「 アドラーの理論 」 の方ばかり見て、「 実際に生きている人間 」 の方を見ていないような感じがする。
部活の顧問、行事の計画、報告書の作成、クレーム対応・・・・・・。果てしのない雑務の連続に、哲人はおそらく、「 人生はシンプルだ 」 という仮説を放棄せざるをえなくなるだろう。シンプルなものも積み重なると、シンプルではなくなるのだ。
( そもそも、シンプルなものほど説明が難しいという見方もあるのだが、アドラー派の人たちにはそれがわからないらしい。 )
ひとつの理論にこだわらずに、ともかく問題の解決策を探らなければならない。そのことに、哲人は気づくかもしれない。
「 アドラー心理学は誤解されている 」 という。だが、たとえば 「 マルクス本人はマルクス主義者ではなかった 」 。ある理論が 「 誤解 」 されて、社会に悪影響を及ぼすことはよくある。主張を重ねれば重ねるほど、「 誤解 」 も積み重なっていく。
そもそも、「 原因を追究しない科学 」 などというものが、ありうるのか。アドラー心理学は、「 心理学 」 などではなく、一種の 「 人生訓 」 のようなものではないのか。青年の相手をするのが心理学者ではなく哲人だというのが、何よりの証拠ではないか。