デローザ・アイドルで名栗湖まで上ったにょ。
山王峠経由だったが、やっぱりこいつで上りはキツい。スコット・アディクトR3 ( 2011年モデル ) と比べるとだいぶ重い。まあでも、極端に重いというほどでもないから、ガマンにゃ。
そういえば、今回は上りで一度もダンシングしなかったにゃ。どうせ上りはダメだとあきらめていたのにゃ。次回は試してみるにゃ。
デローザ・アイドルで一番気に入っているのは、このシートステー。いわゆるモノステーなのだが、アイドルの名にふさわしく、いかにも身持ちが堅そうなカンジがするにゃ。
よしっ。予備のチューブとゴムパッチの他に、もうひとつゴム製品を持って、出かけるか。
( いつもより下ネタ多めでお送りしましたが、イタリア車なんだからこのくらいがちょうどいいよね。てへっ )
デローザ・アイドルのタイヤには、コンチネンタル・グランプリ4000SⅡを選択。
・・・あれっ。乗り心地がいいよ。スコット・アディクトR3とブリヂストン・エクステンザR1Xの組み合わせよりも、ずっといい。コンチネンタルの乗り心地は硬めと聞いたが。これって・・・。
デローザのハートマーク。
ちなみに、ブレーキは左前右後にセッティング。これなら急坂を下る時でも、自転車が前転しないか心配せずに、思いっきりブレーキレバーを引ける ( 右利きの場合 )。
最近、ディスクロードが話題だが、ワシはどうも好きになれない。見た目がアレだし、重くなる。値段も高い。重さをカバーするためにカーボンホイールを導入すると、さらに出費はかさむ。それでもディスクロードを使うとしてメリットがあるのは、都民の森の南側の下り、山中湖へ行った帰りの道志みちの下り、それくらいかにゃ ( 東京人の場合 )。
だが、リムブレーキでも左前にセッティングすれば、下りの恐怖感はかなりの程度緩和されるはずにゃ。
専門誌で言われているほど、ディスクロードは来ていないと思う。実際に走っているのをほとんど見ないのにゃ。
デローザ・アイドルにゃ。
前のスコット・アディクトよりもこいつの方が優れている、というわけではない。色とデザインがワシの好みだから。ただそれだけにゃ。
それでも、一応いろんなところでこいつのレビューは読んでみた。「見かけによらずピュアなレーサー」というのがだいたいの評価だったが、「見かけ通りのラグジュアリーな自転車」というのがワシの評価にゃ。
まだ信号機の多い市街地でしか走っていないが、発進加速は明らかにスコットの方が上。もしかしたら、スチールのコルナゴ・マスターXライトにも負けるかもしれない。デローザの紙のカタログによると、アイドルのフレーム重量はサイズ54.5で1.2㎏。カーボンにしては重い。ワシのはサイズ52だから、ほとんど同じ重量だろう。重ければ遅くなるというものでもないが、こいつの場合はそのまま発進加速に影響が出ている感じにゃ。この分だと、たぶん、ヒルクライム性能も・・・。
だが、スコットよりも優っている点はある。ハンドリングが安定している。スコットは軽過ぎて、普通に市街地を走る時も神経を使ったが、こいつはそんなことはない。
もう白石峠でタイムアタックをすることもないのだから、ワシには速さは必要ないのにゃ。そんなことよりも、こいつに乗っていれば意識の高いIT企業の社長に見える。たとえば峠の上りで苦しんでいる女性サイクリストに、「僕が牽きましょうか」と声を掛ける。「あれっ、ずいぶん重いギアを使ってますね。・・・エッ、真波クンのまねがしたかった? バ・・・、いや、おもしろい人だなあ、ハッハッハッ!」 そんなこんなで2人でてっぺんをクリアした後は・・・。うぷぷっ、楽しみにゃ。
余談だが、デローザの紙のカタログによると、プロトスのフレーム重量はサイズ49で1.1㎏。キングXSはサイズ45で0.88㎏。SKピニンファリーナはサイズ50で0.98㎏。最上位モデルのプロトスがけっこう重いのが意外だが、たぶんアイドルとは全然違うタイプの自転車なんだろう。
驚いたのが、ネオプリマートのフレーム素材が、マンモリ ( わかる人にはわかる ) のレイノルズ631だという点。コロンバスじゃないのか。ラレー・カールトンと同じだが、値段は倍以上違う。だれか、乗り比べをやってくれないかにゃ。
4年前に、スコット・アディクトR3 ( 2011年モデル ) で柳沢峠に上った時の写真。これがワシの最高記録 ( 1472m ) にゃ。
こいつには世話になった。山中湖にも行ったし、白石峠にも上った。とにかく軽い。期待通りの性能だった。7年半乗って、走行距離は約3400キロ。こんなものにゃ。ワシは真夏と真冬には乗らないし、常に複数台持っているから。
で、今回新しいフレームを買って、まだまだ使えるこいつのコンポを乗せ換えることにした。それは・・・。
今年初めてショートタイツを履いたにゃ。
もう一度時坂峠に行こうと思ったが、暑いので途中でやめて帰ったにゃ。
ちなみにワシのサイクリングウエアは、上がLで下がXL。オトコはこうでないとなあ。ワーッハッハッハッ!!
前回の続き。
ワシの持っている聖書だと、箴言の次にくるのがコへレトの言葉。
エルサレムの王、ダビデの子、コへレトの言葉。ダビデの子にコへレトという名は見当たらないし、ダビデの子でエルサレムの王になったのは、ただひとり。そう、ソロモン王その人にゃ。コへレトは、彼の変名なのにゃ。
「 かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい 」( 1、9~11 )。
これはおそらく、「 この世の新奇なるものはすべて、忘れ去られていたものである 」 という言葉のオリジナルにゃ。
彼は言う。「 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る 」(3、19~20 )。
さらに言う。「 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府 ( よみ ) には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ 」( 9、10 )。
つまりソロモン王によると、死後の世界などというものはないし、死んでから 「 永遠のいのち 」 を得るというプロテスタントの望みは、空しいものなのだ。
これが、ユダヤ教の死生観でもある。なぜならソロモン王の知恵は、十戒と同様、神から授けられたものなのだから。ヴェーバーが 「 古代ユダヤ教 」 の中で、ユダヤ教には人が死んだあとどうなるのかという教えがほとんどないと書いているのも当たり前だ。死後の世界は存在しないのだから。
このように、プロテスタントが旧約聖書を拠りどころにして 「 永遠のいのち 」 を求めるのは、まったくの見当違いなのだ。特に箴言は、コへレトの言葉と同じくソロモン王の作品なのだから、なおさらだ。
「 この世界 」 しかないのだ、とソロモン王は言う。
「 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の、日々の労苦に添えられたものなのだ 」( 8、14~15 )。
箴言を読む。一応、ソロモン王が書いたことになっている。
ヴェーバーによると、箴言は、現代の資本主義に多大な影響を与えたという。16世紀の人々は、死後に 「 永遠のいのち 」 を得られるかどうかで大いに悩んだ。それに対してプロテスタントのカルヴァン派は、こう答えた。旧約聖書、特に箴言に倣って生活を労働中心に組み立てることによって、「 自分は神に選ばれている 」 という確信に至ることができる。それが、「 永遠のいのち 」 を得るということでもあるのだ、と (「 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 」)。このような信仰と生活が、現代に至るまで続いているのだという。
読んでみると、なるほど、それらしい記述がある。
勤勉な手は支配し、怠惰な手は奴隷となる ( 12、24 )。
命は慈善の道にある。この道を踏む人に死はない ( 12、28 )。
怠惰は人を深い眠りに落とす。怠けていれば飢える ( 19、15 )。
勤勉な人はよく計画して利益を得、あわてて事を行う者は欠損をまねく ( 21、5 )。
怠け者は自分の欲望に殺される。彼の手が働くことを拒むからだ ( 21、25 )。
金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる ( 22、7 )。
2番目の教えは、アメリカの大金持ちが巨額の寄付を行うときの根拠になっているのだろう。だが、箴言にはこんなことも書いてある。
神に従う人の収入は生活を支えるため。神に逆らう者の稼ぎは罪のため ( 10、16 )。
人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない ( 10、22 )。
人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある ( 14、12 )。
欲望は人に恥をもたらす。貧しい人は欺く者より幸い ( 19、22 )。
富を得ようとして労するな。分別をもって、やめておくがよい ( 23、4 )。
利息、高利で財産を殖やす者は、集めても、弱者を憐れむ人に渡すことになろう ( 28、8 )。
このように箴言には、さまざまな矛盾する教えが含まれている。どちらか一方が正しいというわけではなく、その場その場で判断するしかないのだ。箴言が、ひたすら利益の拡大を目指すだけの現代の資本主義の基礎になった、というヴェーバーの説は不正確で、おそらく16世紀の人々は、自分たちのふだんの生活を正当化するのに都合がいい部分だけを、意図的に聖書からつまみ食いしたのだ。