井筒俊彦訳。岩波文庫。
聖書を読破したので、次はこいつにゃ。まず引っかかったのは・・・。
神アッラーの自称が、複数形の「我ら」だということ。威厳を示すためにこうなるのだという。これと似た例を前に見ている。
旧約聖書の創世記1、26~27。神はこう言った。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。そうして、人の男と女を創造した。
この「我々」も、アッラーと同様、威厳を示すための表現なのだろうか。違う、と思う。アッラーの「我ら」という自称は、コーランに何度も繰り返し出てくるが、旧約聖書の神の「我々」は、ワシの知る限りではここにしか出てこない。これは「消し忘れ」、「修正漏れ」とでも呼ぶべきもので、実は創世記の神は男女のカップルだった。おそらく、カナン地方の神バアルとその妻アシュトレト。だから神はアブラハムに、「約束の土地」としてカナン地方を提示することができた。・・・この仮説は、前にも書いた。
もしかしたら、アッラーもひとりではないのかもしれない。アッラーというのは、実は神々のチーム名で・・・などと言うつもりは毛頭ないぞ。そんなことを言ったら、ISに消されてしまうのにゃ。