14歳の男子中学生が新聞配達の女性を刺した事件。
「命の尊さを教えるべき」という意見がまたも叫ばれるのだろうが、違う。逆だ。少年は、命の尊さを知るからこそ、刺したのだ。
たとえば、神様に何か願い事をする、としよう。たまたま部屋で見つけたゴキブリを叩き潰して犠牲に捧げても、神様は願いを聞いてくれない。犠牲は、何か尊いものでなければならない。
さらに言うなら、おそらくこの少年は、日常生活で行き詰ってしまった。日常原則(道徳、科学、その他の常識)に従っていたら、袋小路にはまってしまった。それならば、日常原則の逆を行けばいい。尊いとされているものを、破壊する。そうすることによって、自分を苦しめている日常生活全体を、転覆させる。そのように考えたのだろう。
「非常時においては、非常識が求められる」(ロバートソン・スミス)。
解決策は、「命の尊さ」を教えることではない。逆に、「命の無能さ」を教えるべきだ。人が一人や二人死んだところで、社会を変える力にはならない。実は少年も、そのことにうすうす気づいている。
「だれでもよかった」。つまり、個人個人のさまざまな生のいとなみなど、どうでもいいということだ。それは、人間の命にそれほどの価値はない、ということでもある。この言葉の中に、少年自身も含まれている。そのことを教えればいい。
人間とゴキブリに、それほどの差はないのだ。どちらも殺す価値がない。