新約聖書を読む 9

2019-02-28 17:06:49 | 

 旧約聖書と新約聖書の関係。

 イエスと弟子たちは、自分たちの発言を権威づけるために、しばしば旧約聖書からの引用を行っている。ワシが持っている聖書の巻末には、旧約の引用元の一覧が載っているほどにゃ。たとえば・・・。

 「あなたは自分を神としている」と非難するユダヤ人たちに対して、イエスは言う。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている」(ヨハネによる福音書10、34~35)。

 これは、詩篇82、6からの引用だという。だが、オリジナルはこうなっている。「わたしは言った『あなたたちは神々なのか 皆、いと高き方の子らなのか』と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する」。つまりこの箇所は本来、「あなたたちは神々ではない」と言っているのだ。

 意味が、オリジナルとは正反対になっている。とんでもない引用のしかただ。だが・・・。

 それでもこれは、イエスの言葉なのだ。オリジナルとは無関係に、尊重されるべきではないか。たとえばルカによる福音書14、23「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ(入るように強制せよ)」。これが、ヨーロッパ人による世界支配の理論的根拠になったという。こんな曖昧な言葉がそれほどの力を持つなら、「あなたたちは神々である」という言葉も、単なるたとえとして軽視すべきではない。「神の言葉を受けた人たち」、つまり、神の言葉を聴いたノア、アブラハム、サラ、ハガル、ロト、ヤコブ、モーセ、サムエル、ソロモン、エリヤ、マリア、パウロ・・・はみな、(聖人どころか)神々なのだろう。

 キリスト教は一神教ではなく、多神教だったのにゃ。


 
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憂国

2019-02-28 10:36:19 | 音楽

 まったく。これだからNHKは・・・。
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新約聖書を読む 8

2019-02-27 18:00:02 | 

 ヨハネによる福音書の特異性その2。反ユダヤ的な要素。

 「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった」(7、1)。

 「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」(10、31)。

 「ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ』」(19、14~15)。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20、19)。

 「ユダヤ人」が、徹底的に悪役になっている。特に、イエスが処刑される場面。他の福音書では、「ユダヤ人」は「群衆」、もしくは「人々」と表現されている。ヨハネによる福音書だけが、ことさらに読者のユダヤ人に対する憎悪を煽るような表現になっているのだ。イエス自身がダビデの子孫でユダ部族に属する、まさにユダヤ人なのだが(マタイによる福音書1、ルカによる福音書3)。

 果たして、「ヨハネによる福音書」の作者は、十二使徒のひとりでユダヤ人の「ヨハネ」だったのか。キリストとユダヤ人を貶める意図で書かれているように思えるが。

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安全なのは・・・

2019-02-26 18:42:19 | Weblog

 経団連の会長が、「原発と原爆が混同されている」という発言を訂正、か。

 いや。ていうか、原発よりも原爆の方がずっと安全なのではないか。二重三重に安全装置がついているから、地震や津波程度では核爆発を起こさないはずだよ。
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新約聖書を読む 7

2019-02-25 18:09:43 | 

 ヨハネによる福音書の特異性。ギリシア的で、反ユダヤ的だ。

 まず、ギリシア的な要素。「初めに言葉があった」というもったいぶった書き出し。ギリシア哲学風だ。さらに・・・。

 「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。・・・その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま・・・」(13、23、25)。

 「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。・・・ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい』。それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」(21、20~23)。

 ・・・モロにBLにゃう。しかも、かなり「肉体的な愛」だ。ペトロに指摘されたイエスも、キレ気味なのにゃ。

 BLの元祖は古代ギリシア。旧約聖書は男色を禁じている(レビ記18、22)し、他の福音書にこのような記述はない。ヨハネって、いったい・・・。

 「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」(21、24)。ヨハネがその弟子だということになるが、果たして・・・。

 ヨハネに限らず、弟子たちの足をイエスが洗う場面がある(13、5~11)。これも、BL的だ。たとえばギリシア神話に出てくる、父親を殺して母親と寝るオイディプース。この名の意味は「腫れた足」で、バハオーフェンによると「勃起した男性器」を暗示しているという。つまり、「足を洗う」というコトの意味は・・・。



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新ルート2019 おまけ

2019-02-24 12:14:26 | 自転車

 青梅を通過して帰るにゃんこ。青梅は今、にゃんこの街へと変身中。だが・・・。

 まだまだ、弱い。青梅といえば、青海と間違えられることで有名だ。それを、活かす。思い切って、「ZEPP青梅」をつくってはどうか。ZEPP東京へ行こうとして青梅に来てしまったアイドルは、いつでもステージに立てることにする。アイドルをただ遊ばせておくよりは、よっぽどましだ。芸能界の支持も、きっと集まるにゃう。
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新ルート2019 3おわり

2019-02-23 16:10:49 | 自転車

 アメリカ村を過ぎて短いトンネルをくぐったら、路面がグチャグチャに。舗装路なのかダートなのかわからないレベルにゃ。地図では三ッ釜の滝のそばまで行けそうな感じだったが。断念にゃう。

 今回のパートナーはデローザ・アイドル。コンポがデュラエース7900でホイールがキシリウムSL(確か2010年モデル)。うむ。なかなかいいバランスにゃ。デローザといえばカンパだが、しばらくこのままでいくにゃ。
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新ルート2019 2

2019-02-22 16:53:54 | 自転車

 海沢大橋を渡って左折すると、すぐこの看板が見えてくる。

 今回はアメリカ村を通過して、三ッ釜の滝になるべく近づく、というプランだったのだが・・・。
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新ルート2019

2019-02-21 16:25:42 | 自転車

 411号線を西に進み、白丸駅を通過して海沢大橋を渡るにゃ。
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語るに落ちた

2019-02-19 11:31:25 | Weblog

 韓国国会の議長とかいう人物が、「日本は盗っ人たけだけしい」、「戦争犯罪に時効はない」、だと。

 まるで日本と韓国が戦争をしていたかのような口ぶりだが、それは歴史的な事実と違う。それにこの人は、慰安婦のことを「おばあちゃん」と呼んでいるが、慰安婦の孫なのだろうか。

 韓国では、慰安婦は国家的英雄だ。もしも「慰安婦の孫」と呼ばれて激高するようなら、ふだんの尊崇ぶりは演技なのか、ということになる。むしろ、そう呼ばれて光栄に思うのが真の韓国人だろう。アメリカで、歴史をネタに使って日本人の子供に絡んでくる韓国人の子供がいるそうだが(「歴史ハラスメント」として非難されるべきだが)、「慰安婦の孫なのか」と問うてみればいい。

 前政権の慰安婦合意の破棄、日韓基本条約の有名無実化。韓国人がこれほど「歴史を無視」するのなら、そろそろ日本人も、「大日本帝国がやったことの責任を、今の日本国は負わない」と主張すべきではないか。
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ザムザ阿佐谷で 2

2019-02-16 16:15:26 | 演劇

 「高取英を偲ぶ会」の帰り道、近所のスーパーで「ワインお楽しみ袋」を買ったのにゃ。

 ふつーのワインではないぞ。品物が袋に入っていて1880円+税で買うのだが、中身が2000円から9500円まで、いろんな値段のワインが入っているのにゃ。そしたら・・・。

 うにゃうっ! 一番高い、9500円の「シャトー・ラグランジェ2010」が入っていたにゃんこ!!

 メドック格付け第3級だと。よくわからんが、ともかく、こんな高いワインは初めてにゃう。こいつはそう簡単には飲めないにゃ。そうだ、老いさらばえてもう酒が飲めなくなった時の、最後の一杯に取っておこう。

 これはきっと、高取さんからワシへのプレゼントなのにゃ。ザムザ阿佐谷では「お気持ち」を出すのをすっかり忘れていたのに・・・。まあ、そのうちお返しするにゃ。
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ザムザ阿佐谷で

2019-02-15 21:31:49 | 演劇

 「高取英を偲ぶ会」。写真は開式前の1枚。某にゃんこが写り込んでいるが、タマタマにゃ。

 式は実にスムーズに進んだ。簡単なあいさつ。故人が好きだった森田童子の曲。故人を振り返る映像。劇団員による合唱。そして、出席者ひとりひとりの献花。1時間で退席となった。

 もうちょっと、劇的な要素があってもよかった。たとえば、白永さんが弔辞を読みながら号泣、とか。まあ、劇は劇、式は式、か。ワシが弔辞を読むとすれば・・・。

 高取さんの発言で印象に残っているのは・・・。確か「家畜人ヤプー」の初演の時だったと思うが、某氏から「学芸会みたいな芝居をやりやがって」と言われて、高取さんは「私は学芸会が好きなんです」と言い返した、とか。こういうユルさが、実は強さだったのではないか。何を言われようと、30年以上も自分の演劇を貫いた。
 また、晩年の彼は、よく「今が月蝕歌劇団の黄金時代だ」と繰り返し書いていた。個人的には疑問に思ったが、おそらく彼は、今でも言うだろう。「今が黄金時代なのだ」、と。そのことに、疑問の余地はない。

 ・・・えっ。高取さんの言葉ばかりで、ワシの言葉がないって?

 いや、これでいい。寺山修司は、「『自分の言葉』などというものはない」という考え方をしていた、と高取さんがどこかで書いていた。「自分の言葉で語るべき」という考え方は、あなたのオリジナルではないのにゃ。
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地方自治体がどーたらこーたら

2019-02-14 17:26:32 | Weblog

 安倍総理「憲法改正して自衛隊を明記すれば、自衛官の募集もスムーズになる」?

 案外この人のメンタリティは、「憲法9条を遵守すれば戦争を避けられる」と信じている人たちに近いのかもしれない。憲法を、過大評価していないか。人を動かすには、「理論」よりも「事実」だ。

 たとえば、自衛隊内部の「イジメ」に対しては厳罰で臨む。そうやって「イジメ」を撲滅すれば、今よりもたくさんの人たちが入隊するだろう。
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歴史の捏造

2019-02-13 19:29:46 | Weblog

 韓国国会の議長とかいう人物が、「今の天皇は戦犯の息子」と発言したそうだが・・・。

 もちろんこれは、歴史的な事実と合致しない。東京裁判で戦犯とされた人たちが「戦犯」なのであって、昭和天皇は含まれない。いや、たとえ「父親が戦犯」だったとしても・・・。

 それが何だというのか。人間は、「歴史の奴隷」なのだろうか。日本人を「侵略者の子孫」と呼ぶなら、韓国人は「奴隷の子孫」と呼ばれることになる。早くそのことに気づくべきだ。
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新約聖書を読む6

2019-02-12 17:28:45 | 

 聖書の「悪人正機説」。

 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(ルカによる福音書7、41~42)。イエスはこう言って、ひとりの罪深い女を赦す。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(同7、47)。

 「イエスは徴税人や罪人と一緒に食事をしている」、と律法学者たちが非難すると、イエスはこう応じた。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカによる福音書15、7)。さらに、イエスは言う。

 「ある人が二人の息子に財産を分けてやると、弟の方は遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしてしまった。落ちぶれ果てた弟が父親のもとに帰ってきて、『もう息子と呼ばれる資格はありません』と言うと、父親は息子を抱きしめてこう言った。『祝宴を開こう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。これを知って、それまでまじめに働いていた兄の方は怒ったが、父親はこう言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」(ルカによる福音書15、11~32)。

 ・・・もしかして、鎌倉時代の親鸞は、キリスト教を知っていた? まさか。まさかね。

 そういえば、ジャズの曲に「ロスト・アンド・ファウンド」というのがあったなあ。この「放蕩息子のたとえ」から来ているのかにゃ。
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