シュペングラーが「西洋の没落」の半分を費やして主張した、「古代のギリシア文化と現代の西洋文化は違う」、という説。だが・・・・・・。
トゥーキュディデースは「戦史」の中で、あるギリシア人にこう言わせている。「ギリシア人は閑暇を愛する。だが、アテナイ人だけは違う。彼らは何もしないでただ思索にふけることを嫌う。暇があれば、自分たちの勢力を拡大させようとする」。そしてアテナイ人は、エーゲ海だけでは満足せず、シケリアにまで攻め込んだ。
古代のアテナイ人は、現代の西洋人に近い文化を持っていたらしい。
「歴史的現実においては理想はなく、ただ事実があるだけである。理由もなく、正義もなく、最終目的もない。あるものはただ事実だけである。このことを把握しないものは、政治について書物を書くがいい、しかし政治をしてはならない」。これがシュペングラーの一番有名な言葉かも。だがこれは、ショーペンハウアーの「歴史に哲学などない」、を連想させる。
ショーペンハウアーからの影響は、大きい。たとえば・・・・・・。
この本の半分は、古代のギリシア文化と現代の西洋文化はまったく違うものだという主張で占められている。シュペングラーによると、ギリシア文化は「個物志向」なのだという。何事も、明確な形を保っていなければならない。何事も、ある一線を越えてはならない。彫刻と幾何学がギリシア文化の代表なのだという。
これに対して西洋文化は「無限志向」だ。固定した形に限定されない。数字が大きければ大きいほどいい。空間をどこまでも突き進み、自分の意志で満たす。限りない成長を目指す。音楽の技法である「対位法」と解析学が西洋文化の代表だという。
シュペングラーが西洋文化の特徴だという「無限志向」。これをショーペンハウアーは、「意志と表象としての世界」の中で、人類全般の特徴だと主張している。「表象としての世界」、つまり知性が把握しうる世界の外に、「意志」が存在する。ショーペンハウアーのいう「意志」とは、「神」のようなものだ。人間は「意志」の劣化コピーのようなもので、他者を押しのけて自分の意志をどこまでも貫こうとする。だから人間の世界は争いが絶えないのだ、という。「この世界に生まれてきたこと自体が罪であると同時に、罰でもある。だから人生は、こんなにも苦しいのだ」。スピノザの汎神論をひっくり返したような世界観。「負の汎神論」、とでも呼ぼうか。
「意志」の支配から逃れるには、このような世界のからくりを直観的に把握するしかない、という。ここでショーペンハウアーは、インド思想の解脱の理論をそのまま用いている。
またショーペンハウアーは、音楽を高く評価している。音楽は「意志」の直接の現れなのだという。この点もシュペングラーに似ている。
「ショーペンハウアーはインド思想に関しては素人だ」、などとシュペングラーは書いている。なのに、自分ではインド思想にほとんど触れていないのは、奇妙だ。ショーペンハウアーを批判するのは、彼からの影響を隠したいから、ではないか。「意志と表象としての世界」を読めば、絶版中の「西洋の没落」の少なくとも半分くらいは理解したことになる、かも。
前にこのブログで取り上げたことのある、シュペングラーの「西洋の没落」が、現在絶版中らしい。
無理もない。もともとショーペンハウアーやニーチェと比べると、シュペングラーはどうしても格落ちな感じがする。それに、この書物は長過ぎるし、日本語版は誤植が多いし、値段が高い。だが・・・・・・。
もったいない気もする。全体的に見るとダメだが、記憶に残る言葉がいくつかあるのもまた事実なのだ。そこで、ワシなりにそれらを紹介してみようと思う。
「民族が文化をつくるのではなく、文化が民族をつくる」。文化は、理性的・計画的につくれるものではない。それはコントロール不能な衝動のようなもの、「なるもの」なのだ、という。
「名づけることは、支配の始まりである」。古代の呪術師は、超自然的な存在を呼び出して、さまざまな仕事をさせた。現代の科学者も同じだ。彼らは「万有引力の法則」等の名前を自然現象につけて、自然を支配したようなつもりになる。
「宗教者や哲学者は生活についての考え方を変えたが、生活そのものを変えたことはいまだかつてない」。生活は変わらない。ただ、理屈づけだけが・・・・・・。
「初期のキリスト教と、西洋で発展したキリスト教は、まったく違う宗教である」。たとえば学者は、現代にまで残る北欧神話は、キリスト教によって変質している、という。だが逆に、西洋人の思考法がキリスト教を変質させたことを見落としてはならない。自分の意志を、他者を押しのけて限りなく拡大させていく「無限志向」。だから帝国主義とキリスト教は、手に手を取って世界侵略へと突き進んだ。
「日本は、完全な西洋文化の国である」。欄外の注に短くだが、シュペングラーはこう書いている。
「社会主義がうまくいくかどうかは、権力を握った労働者が適切な経営判断を下すかどうかにかかっているのであって、資本主義と何ら変わるところはない」。現代の中国を予見していた、のか。
「子猫が毛糸球にじゃれて遊ぶ。それは、子猫の言語である」。こんなポエムも挿入されている。だからなおさら、理解するのが難しくなる。
寺山修司監督の映画「田園に死す」を観る。
スクリーンでこの映画を観るのは初めて。で、「寺町米町」の読み間違いに初めて気がついた。
今回のワシの目当ては、上映後の幾原邦彦監督とJ・A・シーザーのトーク・イベント。お寺の本堂を使ったシーンの撮影裏話はおもしろかったが、省略。「少女革命ウテナ」は、カンガルーが出てきたり、ウテナがピンクのスポーツ・カーに変わったりするところが寺山的、とか。だが、一番驚いた発言は・・・・・・。
「自分はまだ寺山を知らない。ただ彼と同じ方向を見ていただけなのだから」。
・・・・・・ああ。それなら、われわれ凡人はいったい、どうしたらいいのだろうか。
を読む。アプレイウス著。岩波文庫。「セム族の宗教」と一緒に、古本屋で買った。
2世紀のギリシア・ローマ世界の性風俗がてんこ盛り。不倫、BL、児ポ、獣姦・・・・・・。だが、最後に主人公は、イシス神に救われることになる。
イシス神の信徒たちの描写が細かくて、興味深い。さらに、キュベレー神の信徒の去勢された男たちが行う、血まみれの祭儀の描写も。
イシス神に帰依するために、主人公は多額の金を費やす(主に衣装代)。この頃から、宗教は金がかかるものだったのにゃ。
ジミ・ヘンのCDを買った。
「DEVONSHIRE DOWNS 1969」。去年発売された3枚組で、1969年6月20日、22日のライヴが収録されている。20日はエクスペリアンスの最末期の演奏、22日はバディ・マイルスやエリック・バードンとのジャム・セッション。
22日のライヴは「IT NEVER TAKES AN END」というタイトルのブートレッグになっている。これに入っている「THINGS THAT I USED TO DO」は、ジミがプレーしたブルースの中でも最高の出来なのだが、これからという時に、約4分でフェイドアウトしてしまう。今回のCDでは完全版を期待したが・・・・・・。やはりフェイドアウトしてしまうのにゃ。
この2日間のライヴについては、ジミの伝記「エレクトリック・ジプシー」の中でも触れられている。そこに書いてあるように、ジミが騒ぐ観客を説教する様子も、このCDに入っている。
演奏的には、ウッドストックの2ヶ月前、らしい内容だ。特に22日のジャム・セッション。ホーン・セクションを含む大人数のバンドが延々と同じリフを繰り返す中を、ジミのギターが自由に舞う。だから決して、単調にはならない。
20日のライヴに加えて、「IT NEVER ・・・・・・」よりもトータルで約20分長く22日の演奏が収録されているから、買って損はしなかった。最近のジミの「新譜」よりもこっちの方がいいにゃ。
バイクラックがあるのにゃ。「ロードバイクの人大歓迎」だということがすぐわかるにゃ。だから、つい寄ってみたくなるのにゃ。店の中からすだれ越しに自転車の様子がよく見えるから、防犯上も問題なしにゃ。
この店は目立つから、知ってる人も多いかも。ちなみに水曜定休で、ランチは2時半までにゃ。
来た道をもどる。落合橋を過ぎて、さらに南下したところにあるインド料理屋で昼食。マトンカレー。ナン、サラダ、ドリンク付きで750円。こんな山奥なのに、インド人シェフが作る本格的な味なのにゃ。
いつもは補給食かコンビニで済ませてしまうが、この日は違った。なぜかというと・・・・・・。
道が3つに分かれているのにゃ。長瀞に下るには、たぶんこっちの道を行けばいいのだろうが、まだまだ分岐がありそうにゃ。
よし、今日はここまでにゃ。今までだいたいイメージ通りで、きつい上りもなく、体力の消耗もそれほどでもないが、3月末にしては寒い。引き返そう。落合橋からここまで、1時間ちょっとかかった。
問題は、長瀞からの帰りの上りがどの程度なのか、だにゃ。