小河内ダムに到着にゃう。今回はここからさらに西へ向かうにゃ。
このライドで、KOGA A-LIMITEDの走行距離は約1900キロになったのにゃ。去年オシャカになったホイールのデュラエースWH7900 C24TLに並んだにゃ。1100グラムという軽量アルミフレームなので耐久性が心配だったが、今のところ問題なしにゃ。こいつの後にキャノンデールCAAD12、トレック・エモンダALRといったモデルが登場したが、1100グラムというのがアルミフレームの軽さの限界らしいにゃ。
「KOGAN」とか、「荒野のダッチバイク」とか、好き勝手なことばかり言ってごめんよ。これからもよろしくにゃ。
ACジャパン「夢や優しさは想像力から生まれる」、か。
いやいや、それだけではない。「意地悪」も想像力から生まれるんだよ。
意地悪する人は、相手の気持ちを十分わかった上で、相手を追い落とすために意地悪をする。この場合、想像力を働かせれば働かせるほど、手口は巧妙になる。
このCMはラジオとテレビの両方で流れているけど、そんなに評判がいいのかな。ちょっと信じられないね。
ヒルクライム。梅野木峠にゃ。
クランクをコンパクトに交換したスコット・アディクトR3で上ったが・・・・・・。ベストタイムから3分遅れにゃう。もう、タイムを更新しようという欲求がないのにゃ。ただクリアするだけ。まあ、それでもいいか。
ヒルクライムにゃ。
4、5日前に名栗湖に行ってきた。レ・マン湖のような、と言いたいところだが、長雨のせいでドドメ色だったにゃ。
コルナゴ・マスターXライトのギアをフロント50~34T、リア11~32Tに交換して初めてのヒルクライム。チェーン落ちが心配だったが、低い方から3番目のリア25Tになったところでフロントインナーにすれば問題なしにゃ。
今回、一番軽い34×32Tは使わずに済んだ。まだまだいけるにゃ。
敬愛する月蝕歌劇団の高取英先生のお言葉だが、同意できない。たとえ江戸幕府が存続したとしても、同じ結果になっただろう。
問題なのは、西洋文明を輸入してしまったことだ。技術や憲法だけでなく、帝国主義までも日本人は知ってしまった。この点は、どこが政権を握っても変わらなかっただろう。
「日本人は以前は中国文明に属していたが、こんにちはさらにまた西洋文明に属している。言葉の本来の意味でいう日本文化というものは存在しない」。シュペングラーは「西洋の没落」の欄外の注にこう書いているが、百年後の今、中国と韓国がかつての日本の後を追っていることは言うまでもない。
「テイルズリング・ヴェスペリア コミック・マーケット88リミッティド」を買う。
今回は、ユーリとフレンがとうとうくっついてしまう、というお話。待ちかねていたわ。レギュラー陣は鉄壁だけど、副隊長役の長沢さんがいいわ。せっかくくっついた2人を引き離そうとするウザさが絶妙よ。
そろそろゲームが出て10年になるそうだけど、ずっと続いてほしいシリーズだわ。
「サンデー・ジャポン」を見たが、元少年Aのホームページ(?)。あれは・・・・・・。
太陽と月。錬金術のシンボル。昼と夜。意識と無意識。男性的なものと女性的なもの。「2つの対立物を統合して、より高次の物に至る」(ユング「心理学と錬金術」)。
おそらくナメクジ人間も、これと同じ。つまり、「攻撃する側とされる側(加害者と被害者)の統合」。(あるいは、ナメクジは女性器の象徴か。無意識の中の女性的な部分が投影されたもの? それと結合したがっている?)
サソリ人間は、確か「ギルガメッシュ叙事詩」に出てくる。昔は、人間よりも野生動物の方が神に近いと考えられていた(トーテム動物)。エンキドゥも、最初は山の動物たちと遊びまわっていた。
これらのシンボルは、確かに「古臭い」。だが、古典的なだけに強力だともいえる。
以上は、ただ表現されたものを解釈しただけ。ウラに何があるのかは、わからない。
「表現というものがあるのなら、表没や裏現もあるだろう」(寺山修司が引用した、ある詩人の言葉)。
シュペングラーによると、西洋文化は「無限志向の文化」なのだという(「西洋の没落」)。無限に広がる空間を、自分の意志で満たそうとする。帝国主義が、その典型だ。これと正反対なのがインド文化。それは「無(ゼロ)の文化」。目に見えるものはすべて現象に過ぎないし、征服する価値もない。だが・・・・・・。
デュメジルによると、北欧神話とインド神話は親戚どうしなのだという。かつて、インド・ヨーロッパ民族に共通の神話があったのだが、それが枝分かれして2つの神話が生まれた。つまり、北欧神話の「ラグナロク」とマハーバーラタの「最終戦争」は、もともとは同じものだった(「ゲルマン人の神々」)。
シュペングラーとデュメジルの対立を埋めてくれるのは、ユングの説だ。「人の心は極端から極端へと動く」、「反対の一致」。
「無限志向」に疲れたら、人は「無」へと向かうだろうし、「無」に飽きたら「無限」へと向かうだろう。この2つの差は、実は紙一重なのかもしれない。
シャーマニズムの起源。インドの「サマナ(修行をする人)」が中国に伝わって「沙門」になり、それが北アジアに伝わって「シャマン(シャーマン)」になり、さらにアジア全域へ広まっていった(ミルチア・エリアーデ「シャーマニズム」)。
他方、エリック・ロバートソン・ドッズは、こう推測している。古代、ギリシア人は地中海周辺の全域に都市国家を創ったが、黒海沿岸に到達した時に、彼らはアジアのシャーマニズムを知った。それが、「ピュタゴラス派」の始まりではなかったか(「ギリシア人と非理性」)。
つまり、「ピュタゴラスは7回生まれ変わった」という伝説は、インド哲学の「輪廻転生」に由来しているのではないか。。
また、プラトンがピュタゴラスの書物を買い求めた話は、ディオゲネス・ラエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」に出てくる。彼の「霊魂の不滅」に関する説は、ピュタゴラスからの影響が大きい。彼もまた、ピュタゴラス派の一員だった。
ショーペンハウアーが、「プラトンの『イデア』とインド哲学の『実在』は同じもの(「意志と表象としての世界」)」と書いたのは19世紀。だが、実はそもそもの始まりから、西洋哲学と東洋哲学は一体だったのではないか。「あらゆる西洋哲学は、結局、プラトンの注釈に過ぎない」のだから。
久しぶりにセブンネットショッピングをのぞいてみたら、「おすすめ商品」がBL小説になっているにゃう! いままでその手のモノを注文したことはないのに。
タカ派なことを書くと、そっちの方に結びつけられるのか。これも、武藤先生の件の影響かにゃ?
憲法9条は、日本国民の人権(生命、身体、自由、財産)を侵害するおそれがある。
他国の武力攻撃に対しては、武力で応じる他ない。そうしなければ、国民の人権を守れない。せめて憲法9条は、武力の行使だけでも認めるように、改正されるべきだ。尖閣諸島に国籍不明の武装勢力が上陸したら、自衛隊が総力を挙げて殲滅する、という風に。(もちろん、解釈論ではなく、条文の話だ)
また、国内法で戦争を放棄したところで、避けることができないのが戦争というものだ。他国は日本国憲法に拘束されないのだから。戦争になるかどうかは「事実の問題」なのであって、「法律の問題」ではない。他国と話し合うにしても、どれだけの武力があるかによってその結果は変わってくる。
憲法で「戦争放棄」を謳うよりは、かつてのように他国と不可侵条約やら中立条約やらを結ぶ方がましだ。
「戦争放棄」という言葉を繰り返せば平和が保てると考えるのは、一種の「呪術」ではないだろうか。
やっと8月が終わった。全体主義とはどんなものか。それを体験できるという意味では、有意義な月だった。そう、この月は、ひとつの空気で満たされる。
今年もさまざまな言説が展開されたが、一番ばかばかしかったのは、TBSラジオで北丸某が述べた、「日本航空の社員は、たとえ新入社員であっても墜落事故と向き合わなければならない。それと同様に、日本人も過去の歴史と向き合わなければならない」、というヤツだ。
日本航空の社員は、自分の意志で会社を選んだ。だが、個々人は、国を選んで生まれることができない。それなのに、生まれる前の事柄についてあれこれ非難するのは、一般道徳に照らして不当なことだ。
このわかりきった事実を無視して、過去の歴史と絡めて日本人を非難することは、「歴史ハラスメント」として逆に非難されるべきだろう。
それでも過去の責任を追求したいのなら、バカ正直なやり方ではなく、電通あたりに相談して、何か遠回しでさり気ないやり方を研究すべきだろう。