前にこのブログで、ある演劇評論家が寺山の「戯曲論」を引用した上で、寺山作品は再演されるべきではないと言っていることを紹介したが(「寺山修司」)、最近、「寺山修司の戯曲9」(思潮社)に収録されているその「戯曲論」を直接読むことができた。
その結果わかったのだが、この評論家は明らかに読み間違いをしている。確かに寺山は、「一度、『戯曲』として書き、きちんと幕を切ってしまったものを、どうしてもう一度、生身の人間を使って現場検証してみようとするのか」、と書いている。だが、この文章の前に彼は、アラバールの戯曲を読んで抱腹絶倒したが、数年後に劇を観たらただなつかしいだけだった、という経験を例として挙げているのだ。つまり、この場合の「幕を切る」というのは、実際に劇が上演されるということではなく、それ以前に戯曲を読んだ人間の頭の中で劇が展開されることを意味している。要するに寺山は、戯曲を読んで想像していたのと実際の劇が同じならば、再演どころか、そもそもその戯曲は上演される意味がない、と言っているのだ。
同じ戯曲論の中で、寺山はこうも書いている。「・・・台本(あるいはテキスト)がまったく不要だということではない。私はハプニングを目ざしているのでもなければ、偶然性だけで演劇が成り立つと考えているわけでもないからである。たとえば、モダン・ジャズにおけるコードネームのような集団共有の約束事がなければ、演劇は出会いを『組織する』ことは、むつかしくなる。その約束事、つまり相互創造の機会を生成するためのキーワード、コードネーム、暗号、図譜などの類を、私はとりあえずテキスト、台本と呼ぶわけだが、それが『戯曲』とはまったくべつのものであるということを言いたいのである。」
寺山台本は、読むだけで完結するフツーの戯曲とは違い、上演のたびに新しい出会いを生み出すことを目ざしていた。天井桟敷が同じ作品をしばしば繰り返し上演したことも、これで説明がつく。
寺山修司が、少なくとも自分の作品に関しては、再演を否定しているわけではないのは明白だ。興味のある人は、この本か、あるいは「迷路と死海ーわが演劇」(白水社)を探してみて下さい。本屋よりも大きな図書館の方が見つかりやすいかも。