を買う。谷口幸男訳。新潮社。
前から憧れていた一冊。2万円したけど、買ったにゃう。1000ページくらいあるのにゃ。
「農耕民は温和で、狩猟民や牧畜民は攻撃的」。そんな俗説は大間違いであることが、最初の数ページを読めばわかる。バイキングの正体は富裕な農民たちで、彼らは自分たちで軍船を用意して外国へ出かけ、現地の農民に掠奪をはたらく。
9~10世紀ごろの北欧の農民は武装していて、気に入らない相手はたとえそれが国王であっても、容赦なく殺す。ノルウェー国民にキリスト教を強制したオーラヴ聖王も、農民軍との戦いに敗れて死んだのだった。
北欧の神トールは、戦いの神であると同時に農民の守護神でもあった。それはおそらく、当時の農民が戦いに明け暮れていた、という事実を反映しているのにゃ。
「クレオパトラは、知性で男性を魅了したのだ」、という説がある。だが・・・。
それなら、なぜ彼女は、おっぱいを毒蛇に咬ませるという死に方を選んだのか(アントニウス伝)。
まず、この自殺方法は、かなりの巨乳じゃないと無理だ。もしもクレオパトラがAカップだったら、何回毒蛇に咬ませようとしても、その度に蛇は虚しく下にズリ落ちるだけだったろう。しまいにはいじけて、巣穴に帰ったに違いない。
この巨乳によって、彼女はカエサルやアントニウスを魅了したのだ。彼女の人生は、おっぱいがあってこそのものだった。だから、人生を終えるにあたって、あの自殺方法を選択したのだ。ハード面から見ても、ソフト面から見ても、これで間違いない。
現代は知性偏重の時代だが、それに惑わされず、実証的な研究を心がけるべきにゃう。
紀元前850年ころ、イスラエル、ユダ、エドムの連合軍が、モアブを攻めた(列王記下3、5~9)。
この戦争については、預言者エリシャがこんなことを言っている。「主はモアブをあなたたちの手にお渡しになる。」(同3,18)
にもかかわらず、結果はこうなった。モアブ王が長男をいけにえとしてささげると、イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルは自分の国に帰った(同3,27)。
エリシャが、うそをついたのだろうか。そうではない、と思う。「主」は、モアブ王のいけにえの方を喜んだのではないか。
そもそも、モアブ人はユダヤ人と近い。アブラハムの甥のロトが、彼らの始祖だ。このことは、アンモン人にも当てはまる。さらに言うと、エドム人は、アブラハムの孫であるヤコブの兄エサウの子孫だ。さらに、血縁は近い。
はっきり言おう。ユダヤ人の神エホバ、モアブ人の神ケモシュ、アンモン人の神モレク、聖書には名前が出てこないエドム人の神。これらは、実は同一の神だったのではないか。神は気まぐれで、その時の状況に応じてユダヤ人を勝たせたり、モアブ人を勝たせたりしたのではないか。
この神は、人間のいけにえを喜ぶ。ユダヤ人も、それに応えている。アブラハムとイサクのエピソードを振り返ってみよう。神に息子をいけにえとしてささげよと言われて、アブラハムは実に手際よく準備をしているではないか(創世記22、1~10)。いけにえの風習が一般的だった証拠だ。また・・・。
エフタは、自分の娘をいけにえとしてささげた(士師記11,39)。さらに時代が下ったイスラエル王国でも、この風習は続いた(列王記下17、17)。
「あなたの神、主に対しては彼ら(※カナンの先住民)と同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。」(申命記12,31)
だが、この規定は、実はバビロン捕囚時代に書かれたという説がある。ヴェーバーの「古代ユダヤ教」に、そう書いてあったにゃう。
※補足 モアブ人の神はケモシュしか出てこないし、アンモン人の神はモレクしか出てこない。つまり彼らの宗教は、ユダヤ人と同じ一神教だった、と考えるほかない。これは、「エホバ=ケモシュ=モレク説」の傍証となるのではないか。
エホバがケモシュに敗れたのではない。エホバは、ケモシュ(モレク)だったのだ。
今月は、ジーン・シャープ「独裁体制から民主主義へ」の再放送。
前に見たが、内容に問題があるのにゃ。たぶん来週の放送になると思うが、「独裁体制を平和的に転覆させたのか、暴力的に転覆させたのか。統計的には前者のケースの方が多い。だから、暴力を使うべきではない」、というような主張をアメリカの政治学者が行ったという。だが、これは、実に愚かな考え方だと思う。暴力的なやり方が選択されたケースには、それなりの必然性があったのではないか。どちらのやり方が適切なのかは、それぞれの国情によって違うのではないか。ルーマニアのようなケースで、暴力を用いない革命はありえたのか。暴力を用いなければ成功の確率が上がるというのは、まったく現実離れした意見ではないか。
どうも、非暴力的な闘争が、きれいごとにすり替わっているような感じがするにゃ。非暴力でダメなら暴力で、という選択も当然ありうるのにゃ。
サマセット・モームの「月と6ペンス」を読んでいるのにゃ。平凡な男が、ある日突然それまでの生活を捨てて、画家になる話なのだが・・・。
全体の半分近くまで読み終えたが、主人公がどんな絵を描くのか、まったくわからない。画家の細かい技術なんかもまったく出てこない。要するに、人物描写だけで読ませるのにゃ。どこまでこれでもたせるのか、ハラハラするにゃう。
「吸血鬼ドラキュラ」を読む。創元推理文庫。子供の頃から読もう読もうと思っていたのにゃ。生きている間に、ともかく読めたにゃ。ただ・・・。
ドラキュラ伯爵の、ていうか、ブラム・ストーカーのこの歴史記述は、まったくのデタラメなのにゃ。フィン族は、今のフィンランドをつくった人々で、ゲルマン人とは別系統。アイスランドではなく、アジアから移動してきたのにゃ。アイスランドは、ノルウェーからの移民がつくった国で、北欧の中では新興国にゃ。もっとも、ゲルマン人にしても、黒海周辺からヨーロッパに移動してきたという説がある。ボスポラス海峡から東はアジアなのだから、ゲルマン人も「アジア系」と言えなくもないが。
あと、いろいろあってドラキュラ伯爵はロンドンから逃げ出すんだけど、もといたドラキュラ城を目指すのはわかりきったことなのにゃ。にもかかわらず、登場人物たちは、あれこれと推理する。現代の目から見ると、ムダな描写が多いのにゃ。
ニーチェは、ユダヤ教・キリスト教を攻撃している。これらは奴隷と主人を逆転させて、「生」を堕落させた。つまり、弱くて無能な人間が、自分たちのような卑屈な生き方にこそ価値があると思い込むような世界をつくり上げたのだ、と。だが・・・。
一方でニーチェは、こう書いている。「奴隷的状態というものは、精神の訓育と錬成の不可欠な手段でもあるように思われる」。また・・・。
「旧約聖書には、ギリシアやインドではそれと比肩するものがないほどの雄大な風趣をもった人物、事物、言葉が存在する」。弱者であるはずのユダヤ人に、どうしてこのような旧約聖書が書けたのか。ニーチェは何も語らないのにゃ。
また、ニーチェは、反ユダヤ主義を追放すべき、とも書いている。ユダヤ人はヨーロッパに吸収されたがっているのだから、放っておけばいい、と。
何もかもが、分裂しているのにゃ。
を読んだのだった。ニーチェ著。ちくま学芸文庫。
和英対照聖書と並行して読んでいたのにゃ。ニーチェを読むのは、「悲劇の誕生」、「ツアラトゥストラ」以来。一言で言うなら、矛盾に満ちた作品なのにゃ。
ニーチェといえば、「権力への意思」。人生は、権力を獲得するための戦いの連続なのにゃ。その彼が、意外なことに、「自己責任論」を否定しているのにゃ。それは、神・世界・偶然・社会をその責任から放免しようとするものなのだ、と。
創世記1,1~3。 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
英文は In the beginning, when God created the universe, the earth was formless and desolate. The raging ocean that covered everything was engulfed in total darkness, and the Spirit of God was moving over the water. Then God commanded, "Let there be light"- and light appeared.
聖書は循環的な構造をしている。つまり、同じパターンの繰り返しでできている。人間は、何度も神を裏切っては立ち返る。最後の審判も、何度も繰り返されるだろう。そんなわけで、創世記の冒頭にもどって終わることにする。
日本語版では「闇が深淵の面にあり」というあっさりした表現だが、英語版はかなり違う。「荒れ狂う大海がすべてを覆い、それをさらに大いなる暗黒が飲み込んだ」、とでも訳すべきか。その後で、神が光を創造する。つまり、暗黒は光よりも先に存在していた。いや、それだけではなく・・・。
暗黒は、「創造されざるもの」なのだった。「生まれることも死ぬこともなく、変わらない永遠があるだけ」とプルタルコスが書いた(「デルポイのEについて」)、神の属性をもっているのにゃ。
あと、「神の霊」という表現は、クドいかな。神はそもそも霊体なのだから。こんなところかにゃ。
ヨハネの黙示録20,12~13。 幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
英文は Books were opened, and then another book was opened, the book of the living. The dead were judged according to what they had done, as recorded in the books. Then the sea gave up its dead. Death and the world of the dead also gave up the dead they held. And all were judged according to what they had done.
いわゆる最後の審判。「命の書」は、英語版の「生活の書」の方が正確か。内申書のようなものなのにゃ。
死者は自分が死んだ場所から出てきて、裁かれる。「煉獄」というものはないのにゃ。
ヨハネの黙示録16,12。 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。
英文は Then the sixth angel poured out his bowl on the great Euphrates River. The river dried up, to provide a way for the kings who come from the east.
言うまでもなく、これは出エジプト記の繰り返しだ(14、21)。紅海がユーフラテス川に変わっただけだ。だが・・・。
ヨハネの時代に、かつてのエジプトに匹敵するのは、ローマ帝国だ。どうしてユーフラテス川ではなく、 ティベル川としないのだろう?
・・・それだけ、ローマ帝国を恐れていた、ということか。たとえ神がついていたとしても、ローマ帝国を敵に回すことはできない。パウロのように露骨ではないが(ローマの信徒への手紙13、1)、ヨハネもローマ帝国に忖度していたのにゃ。
ヨハネの黙示録14、3~4。 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。
英文は The 144,000 people stood before the throne, the four living creatures, and the elders; they were singing a new song, which only they could learn. Of the whole human race they are the only ones who have been redeemed. They are the men who have kept themselves pure by not having sexual relations with women; they are virgins.
十四万四千人の童貞って・・・。クサそう。それだけでなく、BLの臭いがする。何しろ、作者はキリストの愛人、ヨハネなのだから。
ヨハネの黙示録10、2~3。 手には開いた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、獅子がほえるような大声で叫んだ。
英文は He had a small scroll open in his hand. He put his right foot on the sea and his left foot on the land, and called out in a loud voice that sounded like the roar of lions.
ヨハネの見た天使の幻なのだが、この天使、エジプトのイシス女神に似ているのにゃ。イシスも一方の足を地に、もう一方の足を水の中に置いている。彼女は土と水の両方を支配しているそうにゃ(セリグマン「魔法」)。
ヨハネといえども、エジプト文化の影響から無縁というわけではないのにゃ。