「エヴァンゲリオン」を全話観て思ったのは、「血のつながり」が極端に重要視されているな、ということだ。
主人公の碇シンジの上司は父親で、彼が搭乗するEVA初号機も実は母親と一体化したものだった。しかも、他の零号機や弐号機に乗ってもうまく操縦できないという設定になっている。「乗る」のはいつも自分の母親で、たとえば弐号機、すなわちアスカ・ラングレーの母親と新しい関係をつくろうとしても、それは許されないのだ。
「家出のすすめ」を書いた寺山修司なら、こう言うだろう。「親と離れて成長してきたのに、なぜ幼年期を繰り返すのか。それどころか、母親の胎内にまで退行しているではないか。EVAの外へ出て、親との関係を見つめ直せ」と。「EVA出のすすめ」、というわけだ。その結果、今までとは違った構図が見えてくるかもしれない。どうして自分の父親の女性関係はこんなに乱れているのか、とか、そもそも使徒はだれがよこしてくるのか、とか。
「心」も過大評価されている。「現実は心しだい」なのではなく、「心が現実しだい」なのだと私は思う。心よりもまず、現実を変えられるところから変えてみる。それによって、心も変化するかもしれない。心なんて、その程度のものではないだろうか。日常生活に即して言えば、やはり家出や転職だ。これらを「逃げ」だと非難するかどうかは、それこそ心しだい、ということになるだろう。
劇場版で、碇シンジは心の中で葛藤しながらも決してEVAから降りず、人類の未来をその手に握ることになる。EVAの中に引き籠っているようにも見えるその姿は、一つのことに執着するオタクの人たちと、どうしてもオーバーラップしてしまう。「この作品はアニメ・オタクに一撃を加えた」という説を、私は支持する気になれない。
などと書いてきたけれど、10年遅れの視聴者である私が今一番強く感じるのは、アスカ・ラングレー=宮村優子さんのキャラの強烈さだ。なるほど、これはアスカの流れを汲んでいるなと思われるキャラが、いくつもある。リアル・タイムでハマっていたら、ヤバかったかも。