ロバートソン・スミスの「セム族の宗教」より。
太古の昔、人間は、厳しい自然環境に従属する生活を強いられていた。生活の不安を和らげるために人間は、自然と自分たちの仲を取り持つ存在を、設定する。それがトーテム動物だ。人間の神話的な祖先であり、人間の願いを自然(すなわち、神)に伝えてくれる存在。トーテム動物はふだんは尊重されるが、ある特定の場合(人間社会が存続の危機に瀕した時、とか)には、犠牲として神に捧げられる。「非常時においては、非常識が求められる」。
だが、時代が下り、文明が発達するにつれて、このような観念は維持できなくなってくる。人間よりも動物の方が神に近いなどということが、ありうるだろうか。そこで、新しい神話が作られる。「動物を生贄として捧げる儀式。あれはもともとは人間を犠牲としていたのだが、それではひど過ぎるので、後から動物に変わったのだ」。だがこのことにより、かえって、人間社会が危機に陥った時には、実際に人間が犠牲として神に捧げられるようになってしまった。人身供犠は、かなりの程度文明が発達してから行われるようになったものだ。「非常時においては、非常識が求められる」。
「命の大切さ」を学校で教えられる。それは、日常原則の中でも最も重要な原則だろう。だが、「日常原則に裏切られ、追い詰められた」人にとっては、どうか。彼は、彼女は、危機から逃れるために、個人的な人身供犠に走るかもしれない。大切なものであれば、あるほど「非常時においては、非常識が求められる」。
むしろ学校では、「命の無能さ」が教えられるべきだ。「役に立たないものは 愛するほかはないものだから」(寺山修司)。