を子供に読ませるべきかどうかが問題になっている。
「読ませるな」と主張する人たちは、自分では気づいていないかもしれないが、実は「戦後の価値観」にどっぷりと浸かっているのだ。「絶対に戦争をしてはいけない。ましてや侵略などもってのほかだ」。だから、時間は遡るが、旧日本軍の兵士の残虐行為などもあってはならないし、それが表現されることも許されない。このような考え方をする人たちは、「ヒロシマ・ナガサキに惨禍をもたらした核兵器は、廃絶すべきだ」と主張する人たちと、実はまったく同じ論理の上に立っているのだ。
だが、「残虐」とは何か。「はだしのゲン」の描写がひどいというが、何を基準にしてそう言うのか。歴史上のさまざまな虐殺に関する知識が、あまりにも乏しいのではないか。
メソポタミア神話のイシュタル女神は、愛の女神であると同時に戦いの女神でもあった。旧約聖書のエホバの神は、ユダヤ人を保護する神であると同時に、自然災害を司る神であり、疫病を送る神でもあった。このような矛盾を含んだ神の姿は、何を意味しているのか。
それは実は、人間そのものの姿を反映したものではないだろうか。救世主が殺人鬼にもなり、聖女が時には娼婦にもなる。そのような矛盾を含んだ人間の「全体性」を、これらの神話は物語っているのではないか。
「戦争をしてはいけない」という理念は、長い人間の歴史の中でかなり特殊なものだし、実際に日本人がどの程度これを守るつもりでいるのか、はなはだ疑問だ。憲法9条がどうのこうのという議論よりも、戦後ほどなくして自衛隊が誕生し今に至っているという「事実」の方に注目すべきだ。
「時には戦争も辞さない」。それが人間本来の姿だろう。ひとつの理念だけで、生きられるものではない。「全体性」を、取り戻すべきだ。
たとえば、ヨブ記やヨシュア記を含んでいるからという理由で、「旧約聖書を子供に読ませない」という決定がなされたら、どうだろう。世界的に、文化の程度が疑われる結果になるのではないか。