リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

バッハ「マルコ受難曲」と「カンタータ198番」(1)

2021年12月12日 13時35分20秒 | 音楽系
受難曲というのはイエス・キリストの受難物語を題材とした音楽で四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの受難曲があります。バッハの伝記を書いたヨハン・ニコラウス・フォルケルによれば、バッハは5つ受難曲を作曲したとされています。(バッハの生涯と芸術:フォルケル著、柴田治三郎訳、岩波文庫)ひとつ多いのは二重合唱のためのものを数に入れているからです。(同書)

現在完全な形で残っているのはマタイとヨハネだけで、マルコは歌詞のみを残して音楽は消失しました。(バッハ作品総目録:角倉一郎著、白水社)マルコ受難曲はパロディ関係にあるカンタータ(198番、54番、7番など)が知られています。特に198番は対応関係がわかっている曲が多く(同書)これを元に復元を試みた例があります。カンタータ198番はザクセン選帝侯妃クリスティアーネ・エーバーハルディーネ(1671-1727)崩御の際に作曲された追悼のための音楽で、1727年10月15日にライプツィヒのパウロ教会で演奏されました。

WIKIによればここでいう「ザクセン選帝侯」というのはアウグスト2世モツヌィ(1670-1733)のことでポーランド王とザクセン選帝侯であった人です。ザクセン選帝侯としてはフリードリヒ・アウグスト1世です。彼は「おそらく芸術と建築のパトロンとして記憶されている。彼はザクセン選帝侯国の首都ドレスデンを主要な文化的中心地に変え、ヨーロッパ中から芸術家や音楽家を宮廷に招聘した」(WIKI)この招聘された音楽家のひとりが知る人ぞ知るシルヴィウス・レオポルド・ヴァイスです。

ちなみにこの王様は女好きで知られていて、愛人が20人近くいて生涯にもうけた子供が350人を超えていた(WIKI)と言います。クリスティアーネ妃とは結婚して早い段階で別居状態で、王は政治と不倫に明け暮れていたようです。

クリスティアーネが56歳でなくなった時の葬儀も王ばかりか息子も葬儀に参列しなかったそうです。そのお妃を不憫に思ったライプチヒの貴族学生カール・フォン・キルヒバッハという人が追悼行事を開催しようと、バッハに作曲を依頼しライプツィヒで執り行われた追悼行事のための音楽が「BWV198侯妃よ、なお一条の光を」です。BWV198の初演がドレスデンではなくライプチヒだったのもそういった事情があったからです。(バッハカンタータの森を歩む3:磯山雅、東京書籍)

BWV198には2台のリュートが指定されていますが、ドレスデンに宮殿があった王様のお妃の追悼音楽だから当然ヴァイスが演奏に参加したはずだとおっしゃる方もいるようですが、それは間違いでしょう。「初演」はドレスデンではなくライプチヒですので、あの有名なドレスデンの宮廷オケがライプチヒまで出張演奏に行くわけはありません。組織的にも無理でしょうし、お妃をほとんど無視して葬儀にもいかないような王様に頼んでも許可を出すわけがありません。演奏は当然ライプチヒのミュージシャンで行ったはずです。それに198番のリュートパートはとても地味な感じで、もしそれがヴァイスが弾くことを前提として書いていたら、「泣きのリュートフレーズ」にしてたかもしれません。