院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

東京の行商人

2013-02-05 01:55:49 | 生活
 私は大学に入るまで東京に住んでいた。ほかの地方のことは知らないが、とにかく東京では行商人がよく来た。

 ものの本によると、江戸時代にはもっといろんな行商人がいたという。豆屋が「豆やー、煮豆」と売り声をかけていた。あさがおの苗売りもあったらしい。さすがにこれらを私は知らない。

 私が知っている行商人は、まず浅蜊屋。「あさりーしじみー」という売り声で、早朝に来た。豆腐屋も来た。これは今でも残っている。豆腐屋がラッパをいつから使うようになったか知らないが、ラッパの豆腐屋の前に実は、天秤棒で浅い桶を担いで売りに来るラッパを使わない豆腐屋があった。私はそのような豆腐屋を実際に見た。

 二八蕎麦はすでになかった。そのかわり、夜泣き蕎麦と当時言われていた移動するラーメン屋があった。チャルメラの音をご存知の方も多いだろう。名古屋では20年前まで見かけたが、豊橋では見た覚えがない。

 あんこが入った蒸しパンのようなものを売りに来ていて、けっこうおいしかった。玄米パンといい、売り声は「玄米パンのほやほやー」だった。妻の話では、ロバにリヤカーを引かせてくる「ロバのパン屋さん」というのが名古屋にあったそうだ。東京では見かけなかった。

 以前に流しの焼き芋屋がなくなったとこの欄に書いたら、東京にはまだあるとの情報をいただいた。焼き芋は冬のもので、焼き芋屋は夏になると、わらびもちを売っていた。「わらびーもち、冷たくておいしいよー、早く来ないと行っちゃうよー」が売り声だった。

 金魚売りも来た。「きんぎょーえー、きんぎょー」という売り声だった。リヤカーで来たが、それ以前は浅くて幅広の桶を二つ天秤棒で担いできた。土木工事などでも天秤棒がよく使われた時代だった。農家は肥えたご(肥料の人糞を入れるずん胴の桶)を天秤棒で担いでいた。23区内にもまだ農家があった。私は目黒区の上目黒で遊んだが、近くに養豚場ととうもろこし畑があった。今その辺の土地は1坪350万円である。

 風鈴屋もきた。夏の風物詩だった。掛け声はなく、沢山の風鈴をじゃらじゃらと鳴らしてくるので、それと分かった。若い人は知らないかもしれないが、風鈴は涼感を感じるための必須アイテムだった。クーラーがなかったから、夏は猛烈に暑く、みな食欲がなく痩せた。「夏痩せ」という俳句の季語が、私には実感として分かる。扇風機はすでにあった。

 竿竹屋も来た。昔はトラックではなく、肩に担いできた。トラックで来るようになってからも竿竹屋は残った。竿竹はどこかに売っていたとしても、トラックがないと運べないから残ったのだと思うが、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」という経営学(?)の本がベストセラーになったから、生き残った理由が別にあるのかもしれない。私はこの本を読んでいない。

 富山の薬売りも来た。ケロリンという安直な名称の頭痛薬が入った丈夫な紙袋がわが家にあった。毎年、その袋を補充しに富山の行商人が来ていた。

 いかけ屋(鍋の穴を塞ぐ職人)や包丁の砥ぎ屋も来た。羅宇屋(らおや)は蒸気でピーという音をならしながら来た。羅宇とはキセルの木製の部分のことである。それがヤニで詰まるので、その部分の交換が必要になる。金属の部分と木製の部分を外すのに蒸気が必要だった。羅宇屋はキセルが使われなくなると同時に消滅した。

 千葉から農家のおばちゃんが野菜を背負子に山ほど積んで売りに来た。彼女らの野菜は安いうえに、その日の朝に採れた品物だから新鮮でうまかった。鉄道は「行商専用列車」という車両を設けていた。

 この時代、テレビがようやく普及し始めたころで、「パパはなんでも知っている」というアメリカのホームドラマが放映されていた。アメリカ人の中流家庭の話だが、その家の奥さんは車でスーパーに買い物にいき、大きな袋をたくさんもって戻った。家に帰ると、それらの品物を大きな冷蔵庫に入れるのである。家も立派できれいである。

 当時子どもだった私たちには信じられないような生活だった。私たち子どもはみなツギが当たったズボンをはいていた。冷蔵庫がなかったから、食品のまとめ買いはありえなかった。むろん、自家用車なんて持っている人はいなかった。私たちはこの時に、外人(米国人)コンプレックスを強烈に植えつけられた。