院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

つまらなくなった東京国立科学博物館

2013-02-09 03:28:46 | 科学
 50年以上前、少年だった私は、ねだって上野の東京国立科学博物館によく連れて行ってもらった。子どもの入場料は5円だった。

 何か特定のものが面白かったわけではない。何というか謎めいた古色蒼然さに少年の私は惹かれたのだ。

 ミイラが置いてあった。どこかの未開民族の風習だった小さな「干し首」が展示されていた。これらが、かつては生きている人だったと思うと、恐怖感を感じた。それとともに、このようなものを堂々と展示している博物館という存在に畏怖の念を覚えた。

 科学博物館の外に、本物のクジラの骨格標本が置いてあった。クジラの肋骨の中に入ることができたから、クジラの大きさを肌で感じることができた。

 ホルマリン漬けの深海魚の標本があった。一部が解剖されていて、内臓まで見ることができた。地下室には未整理の動物の剥製が雑然と置かれていた。未整理だから照明もなく、薄暗がりの中にそれらの動物たちはいた。動物園でも見たことがない動物たちが身じろぎもせずに立ちつくしていた。

 吹き抜けには巨大な振り子がゆっくりと揺れていた。振り子は地球の動きから自由で、地球が自転しても振り子は一定の場所にあるので、少しづつ移動していくことが振り子の下に置かれた大きな時計版から分かった。

 水銀整流器という機械があって、交流を直流に変換する装置らしいが、それがタコ入道のような大きな真空管で、その中で水銀が沸騰してぴちぴとち音を立てて光っている。

 東京国立科学博物館は、ひとことで言うとおどろおどろしい場所だった。それゆえにこそ、少年の私は強烈に惹かれたのだった。

 30年ほど前、私の子どもたちが少年少女になったころ、科学博物館に連れて行った。外にあったクジラの骨格標本は撤去されていて、代わりにクジラの実物大の模型が置かれていた。何故ニセモノに換えたのよ!と私は思った。本物の骨格標本であればこその魅力だったのだ。

 水銀整流器の代わりに電卓が展示してあった。電卓なんてすでに家にありますよ。水銀が煮え立っていてこそ面白い展示だったのだ。

 未整理の動物の剥製は展示されていなかった。その地下室は封鎖されていた。その代わりに小ぎれいなショウウインドウの中が森にのようなセットになっていて、その中で生きているかのように動物の剥製が置かれていた。見たかったのは小ぎれいな展示ではなかったのよ。いかにも見てくださいという展示は面白くなかった。

 巨大振り子はまだ存在した。ミイラも展示してあった。それがせめてもの救いだった。「干し首」はもう展示されていなかったような気がする。

 あれから30年、今度は私の子どもたちが孫を連れて科学博物館に行く番になった。私は最近行っていない。ミイラはまだあるか?剥製の展示はさらに「洗練」されてしまったのではないか?昔ほど面白くないのではないか?そのうち子どもたち東京から来ることがあったら、訊いてみようと思っているところだ。