私の若いころには活版印刷しかなかった。(写真植字はあったが高かった。)だから、出版物はみな活版印刷で、校正が大変だった。
私の処女論文は活版印刷だった。原稿はむろん手書きである。学術雑誌に投稿すると、レフェリーから意見がついて戻ってくる。意見になるほどと思えば、原稿を書き換える。その際、当時の論文原稿の習いとして、すべて最初から書き直さなくてはならない。一部分を直しただけの原稿は、正式な投稿論文として認められなかった。だから、投稿者は手書きで書き直すことに大きな労力を割かれた。
その上、印刷された原稿(これをゲラ刷りと言った)は、誤字や脱字だけではなく、活字がさかさまになっているようなことがあった。これを直すのも一苦労だった。
当時、活字をひとつひとつ拾う職人を文選工といった。彼らはものすごいスピードで活字を拾うことができた。その代わりに、誤りも多かった。
そのころワープロが出現して、瞬く間に広まった。これにより、文選工と和文タイプ技術者は職を失った。ワープロ単能機とPC用のワープロソフトが出たのは、ほぼ同時だったように記憶している。
PC用では一太郎というワープロソフトが一世を風靡した。そのころ、松茸というマイナーなPC用ワープロソフトがあった。私は学位論文を書くのにそれを使用した。原稿用紙200枚ほどの大論文で、レフェリーとのやり取りが2回あったが、松茸のおかげで最初からすべて書き直すという無駄をせずにすんだ。
もう手書きの原稿なんて受け付けてくれる学術雑誌なんてない。(欧文雑誌はワープロができる前から、タイプライターによる原稿しか受け付けていなかった。)しかし、なぜなのかは分からないが、電子媒体での投稿を受け付けている学術雑誌は見かけない。みな、紙に印刷してからでないと受け付けてくれない。
分子生物学や生化学の分野では、レフェリーとやり取りしていては発表が遅くなる時代になってしまった。だからかどうか、有名学術雑誌はみな「電子版」というのを持っている。精神医学の分野は一刻を争うような論文はないから、まだ紙媒体でもよいが、分子生物学などの研究の最前線ではみな一番乗りを競っている。
こういう研究者には「電子版」が必要なのだろうが、レフェリーがどのように電子投稿に応じているのか、私は知らない。
私の処女論文は活版印刷だった。原稿はむろん手書きである。学術雑誌に投稿すると、レフェリーから意見がついて戻ってくる。意見になるほどと思えば、原稿を書き換える。その際、当時の論文原稿の習いとして、すべて最初から書き直さなくてはならない。一部分を直しただけの原稿は、正式な投稿論文として認められなかった。だから、投稿者は手書きで書き直すことに大きな労力を割かれた。
その上、印刷された原稿(これをゲラ刷りと言った)は、誤字や脱字だけではなく、活字がさかさまになっているようなことがあった。これを直すのも一苦労だった。
当時、活字をひとつひとつ拾う職人を文選工といった。彼らはものすごいスピードで活字を拾うことができた。その代わりに、誤りも多かった。
そのころワープロが出現して、瞬く間に広まった。これにより、文選工と和文タイプ技術者は職を失った。ワープロ単能機とPC用のワープロソフトが出たのは、ほぼ同時だったように記憶している。
PC用では一太郎というワープロソフトが一世を風靡した。そのころ、松茸というマイナーなPC用ワープロソフトがあった。私は学位論文を書くのにそれを使用した。原稿用紙200枚ほどの大論文で、レフェリーとのやり取りが2回あったが、松茸のおかげで最初からすべて書き直すという無駄をせずにすんだ。
もう手書きの原稿なんて受け付けてくれる学術雑誌なんてない。(欧文雑誌はワープロができる前から、タイプライターによる原稿しか受け付けていなかった。)しかし、なぜなのかは分からないが、電子媒体での投稿を受け付けている学術雑誌は見かけない。みな、紙に印刷してからでないと受け付けてくれない。
分子生物学や生化学の分野では、レフェリーとやり取りしていては発表が遅くなる時代になってしまった。だからかどうか、有名学術雑誌はみな「電子版」というのを持っている。精神医学の分野は一刻を争うような論文はないから、まだ紙媒体でもよいが、分子生物学などの研究の最前線ではみな一番乗りを競っている。
こういう研究者には「電子版」が必要なのだろうが、レフェリーがどのように電子投稿に応じているのか、私は知らない。