ある結社のA主宰は、以下の素人の俳句を「ただの報告である」と退ける。
コンビニにおでん売りをり買ひにけり
歳月を経て咲き初めし寒桜
被災地で汗水流すボランティア
確かにさほど面白くない俳句だが、虚子のいう「客観写生」とどのように違うのだろうか?以下に虚子の句を挙げてみる。
岩の上に傾け置きぬ海苔の桶
潮の中若布(わかめ)を刈る鎌の行くが見ゆ
もたれ合ひて倒れずにある雛かな
上の3句も、報告と言えば報告である。でも、素人の俳句よりも虚子の俳句のほうがはるかに佳い。どこが違うかというと、虚子の句には「発見」あるのだ。
桶が傾き置かれているという発見。若布の鎌が行くという発見。倒れずにあるという発見である。
この発見が、素人の「見たまま」と決定的に違うところである。だから、罪は「客観写生」という命名にある。「発見写生」とでもすれば、まだ意味が分かる。客観写生、客観写生と言い募るから、私たち素人は勘違いしてしまうのだ。
コンビニにおでん売りをり買ひにけり
歳月を経て咲き初めし寒桜
被災地で汗水流すボランティア
確かにさほど面白くない俳句だが、虚子のいう「客観写生」とどのように違うのだろうか?以下に虚子の句を挙げてみる。
岩の上に傾け置きぬ海苔の桶
潮の中若布(わかめ)を刈る鎌の行くが見ゆ
もたれ合ひて倒れずにある雛かな
上の3句も、報告と言えば報告である。でも、素人の俳句よりも虚子の俳句のほうがはるかに佳い。どこが違うかというと、虚子の句には「発見」あるのだ。
桶が傾き置かれているという発見。若布の鎌が行くという発見。倒れずにあるという発見である。
この発見が、素人の「見たまま」と決定的に違うところである。だから、罪は「客観写生」という命名にある。「発見写生」とでもすれば、まだ意味が分かる。客観写生、客観写生と言い募るから、私たち素人は勘違いしてしまうのだ。