私はオーケストラは指揮者と事前に練習とコミュニケーションを重ね、本番はその成果を表すものだと思っていた。事実そうなのだが、それだと新人指揮者コンテストが成立する理由が分からない。
新人指揮者コンテストには、オーケストラとの事前の練習がないからだ。オーケストラと初対面で、前で指揮棒を振っても指揮者の巧拙なんか分かるはずがないじゃいかと、これまで思っていた。
先日、テレビでイスラエルの指揮者が指揮法に関する解説を行っていた。カラヤンとか有名な指揮者の演奏場面をビデオで写して、ほらここがこうなっているだろうと事細かに説明した。それによって、指揮者に対する私の長年の疑問が解けた。
イスラエルの指揮者によれば、オーケストラは指揮者がいなくても演奏ができるのだという。それではなぜ指揮者が必要なのか?
イスラエルの指揮者はメトロノームみたいな指揮者を例に出した。そのような指揮者による演奏は確かにつまらなかった。イスラエルの指揮者によれば、メトロノームのような指揮者は権力を握りたがる。だから、全部思い通りにオーケストラを支配したいのだという。
その結果、オーケストラ自身がもつ個性や独創性を殺してしまって、演奏がつまらなくなってしまうのだという。
そこで、たとえばカラヤンの指揮法を見ると、ぜんぜんメトロノームではなく、体の動きがあいまいで、極端な場合、オーケストラはどこで音を出せばよいのか分からないような指揮法である。
イスラエルの指揮者によれば、こうしたあいまいさがオーケストラの創造性を刺激し、新鮮な音楽が造られるのだという。ああ、そうだったのか!指揮者はただのメトロノームではなく、身体の動きによってオーケストラの良さを引き出す役目をしていたのか。
それなら、新人指揮者コンテストが成立しうる。それにしても、指揮法とはなんて微妙で深い作用なのだろうかと、あらためて驚嘆した。
指揮者の存在意義について、私は中学生の時から疑問に思っていた。なぜ指揮者に一流と末流があるのか?同じオーケストラが指揮者によって別の音楽を奏でるのか?しかし、誰もその疑問に答えてくれなかった。50年を経て、ようやく説得的な回答に出会った。けれども、50年間も説明されなかったということは、もしかしたらイスラエルの指揮者の説明も一面な見方に過ぎないのではないかとの疑惑が、今度は新たな疑惑として浮上してきた。
新人指揮者コンテストには、オーケストラとの事前の練習がないからだ。オーケストラと初対面で、前で指揮棒を振っても指揮者の巧拙なんか分かるはずがないじゃいかと、これまで思っていた。
先日、テレビでイスラエルの指揮者が指揮法に関する解説を行っていた。カラヤンとか有名な指揮者の演奏場面をビデオで写して、ほらここがこうなっているだろうと事細かに説明した。それによって、指揮者に対する私の長年の疑問が解けた。
イスラエルの指揮者によれば、オーケストラは指揮者がいなくても演奏ができるのだという。それではなぜ指揮者が必要なのか?
イスラエルの指揮者はメトロノームみたいな指揮者を例に出した。そのような指揮者による演奏は確かにつまらなかった。イスラエルの指揮者によれば、メトロノームのような指揮者は権力を握りたがる。だから、全部思い通りにオーケストラを支配したいのだという。
その結果、オーケストラ自身がもつ個性や独創性を殺してしまって、演奏がつまらなくなってしまうのだという。
そこで、たとえばカラヤンの指揮法を見ると、ぜんぜんメトロノームではなく、体の動きがあいまいで、極端な場合、オーケストラはどこで音を出せばよいのか分からないような指揮法である。
イスラエルの指揮者によれば、こうしたあいまいさがオーケストラの創造性を刺激し、新鮮な音楽が造られるのだという。ああ、そうだったのか!指揮者はただのメトロノームではなく、身体の動きによってオーケストラの良さを引き出す役目をしていたのか。
それなら、新人指揮者コンテストが成立しうる。それにしても、指揮法とはなんて微妙で深い作用なのだろうかと、あらためて驚嘆した。
指揮者の存在意義について、私は中学生の時から疑問に思っていた。なぜ指揮者に一流と末流があるのか?同じオーケストラが指揮者によって別の音楽を奏でるのか?しかし、誰もその疑問に答えてくれなかった。50年を経て、ようやく説得的な回答に出会った。けれども、50年間も説明されなかったということは、もしかしたらイスラエルの指揮者の説明も一面な見方に過ぎないのではないかとの疑惑が、今度は新たな疑惑として浮上してきた。