20年近く続いた精神科治療の良心的な雑誌がこのほど休刊となる。役目を終えたからではなく、売れないからだ。最終号に一文を寄せる。その原案を以下に示す。我ながら、このブログと同じ論調だなぁと思う。専門家向けなので、一般的でない用語が出てくるが、大意は掴んでいただけるだろう。
題名案:終刊にあたって思う
(1)この13年間に進歩はあったか?
前回、私が本誌に寄稿したのは西暦2000年8月のことだった。あれから13年、このたび本誌が休刊されることになり、寂しい思いがする。
私が当時勤務していた総合病院では1999年の大晦日、すべての役職者が集められ、病院に待機した。これから起こるかもしれない事態に備えてのことだった。午前0時を過ぎて新年を迎えてからもしばらく待ったが、何事も起こらなかった。もっとも心配されたのは電気、水道などのインフラの異常だったが、どうということはなかった。これが、いわゆるコンピュータの2000年問題だった。
2000年に寄稿した文章に書いたことだが、その当時、将来「デジタルデバイド」(コンピュータを使用できる者とできない者との格差)が生じると言われていた。だが、コンピュータの使い勝手の進歩が速く、現在、デジタルデバイドは生じていない。この13年間に生じたもっとも著しい変化は、コンピュータの進歩と普及だろう。2007年にはスマートホンが普及し始めた。スマートホンだけではなく、そもそも携帯電話がコンピュータそのものと言えるから、一人が一台のコンピュータをもつに至った。
医療もコンピュータの発達に伴って、さまざま恩恵を受けた。心電図の読解はもはや内蔵のコンピュータのほうが人間より正確だし、臨床検査の結果が2時間足らずで出るのも、コンピュータが検査機操作の多くの部分を代行するようになったからである。CT検査や超音波検査による画像の3D化は、コンピュータの処理速度とメモリの飛躍的な増大によって可能になった。
インターネットの普及も急速だった。索引誌で文献を調べるのはとっくに時代遅れで、今では文献検索はすべてインターネットである。
ところが、精神医療はコンピュータの発達やネットワークの拡大からどれほどの恩恵を受けているだろうか?実は診断においても治療においても、あまり受けていない。
(2)精神科治療はどれほど進歩したか?
まず薬物療法だが、非定形抗精神病薬もSSRIも、2000年にはすでに出回っていた。2000年以降、それ以上に革新的な薬剤は出ていない。ただ、薬剤の研究方法には変化があった。それは、神経伝達物質の受容体と薬剤の作用機序を対比して研究できるようになったことである。
受容体の分類は年を追うごとに細分化されていった。薬剤の効能も、どの受容体に影響を与えるから、このような効果があるという説明の仕方が、医師向けの宣伝に使用されるようになった。
だが、受容体の種類と精神現象を一対一の関係で結び付けるには無理がある。精神現象はきわめて複雑な過程であることが推測され、ある薬剤の受容体への影響だけで説明できるはずがない。
受容体の研究は現在ただ今の流行に過ぎないだろう。研究者は論文が雑誌に掲載されることを欲する。研究者は掲載されてナンボの世界にいるから、トピックを追わざるをえない立場にある。だが、受容体の研究は必ずすたれる。いずれ受容体で説明できるのはここまでという限界が明らかになって、それ以上研究するのが無意味になるはずだ。
SSRIなぞは、その効果さえ疑われ始めている。SSRIの効果とされてきたものは、すべてプラセボー効果ではなかったか、という指摘がそれである。
次に心理的身体的アプローチ、すなわち精神療法、SST,作業療法、認知行動療法などであるが、それらが有効だったという客観的な報告はないと言ってよい。あると報告している文献はいくらでも存在するが、評価尺度に難がある。もしくは、対照群がない。
これらの心理的身体的アプローチは、いわば「愛情」と似たもので、「愛情」の「効果」が測定に馴染まないのと同じで、これらのアプローチを薬剤のようには測ることはできないという主張がある。そのような主張はうなずける面もある。だが、「愛情」に似たものなら、○○療法と名乗るべきではないし、まして対価を求めることに問題はないだろうか?
(3)現在盛んな「治療」は昔から盛んだった
私はプラセボー効果を、思い込みだと切り捨てるつもりはない。むしろ逆に、プラセボー効果によって改善や治癒をする患者がいる以上、プラセボー効果は大いに利用すべきだと考えている。
患者がいかに「良くなった」と実感できるかが最重要事項である。誤解を恐れずに言えば、「良くなった」と感じてくれさえすれば、寿命が短くなってもよいのである。(ここには、医療がいかに発達しても無限の寿命は得られないという諦念がある。ならば、とりあえずの苦痛を取り去ることが医療の最大目標ではあるまいか?)
世間の「健康事情」を見ると、サプリメントが栄華をきわめている。私が生まれてから、これほどのサプリメントブームはなかった。クロレラなどが喧伝された時期もあったが、市場規模は今よりもずっと小さかった。サプリメントメーカーは名もない会社が多い中、有名な酒造会社、写真会社さらに本物の薬を売っている製薬会社までがサプリメントに進出してきた。
むろんサプリメントにはなんの薬理作用もない。西洋の中世から盛んに行われた「瀉血」もなんの効果もない。現在では効果どころか「瀉血」は有害であることが分かっている。これらに共通するのはプラセボー効果である。
思えばプラセボー効果は有史以来、重用されてきた。神社のお札やお祓いが好例である。つい最近、私の祖母の時代まで、これらは霊験あらたかなものとして信じられてきた。伝統的な祭りも同じだ。祭りは五穀豊穣を願って行われることが多いが、無病息災を願うこともあった。
うなぎと梅干のような食べ合わせは「迷信」として排除されてきたけれども、お祓いや祭りを「迷信」とは呼ばない。それらには人心を安らがせる一定の効果があるからだろう。
現在のサプリメントにも同じことが言える。サプリメントには人心を安定化させる効果がある。値段が高いほど「有効」であるところも面白い。もっと実質的な効能としては、サプリメントによって大衆が無用に医療機関を受診することがなくなることが考えられる。サプリメントは自腹だから、国民医療費の削減に役立つかもしれない。
実は医療機関が行っている行為のかなりの部分がプラセボー作業だと私は考えている。精神医療も例外ではない。してみると医療とは古来、プラセボーだったことに思い至る。わずかこの13年間に何が進歩したかと問われても、千年単位で行われてきた医療の歴史を思えば、この13年間は千分の13でしかないと答えざるをえないのである。
題名案:終刊にあたって思う
(1)この13年間に進歩はあったか?
前回、私が本誌に寄稿したのは西暦2000年8月のことだった。あれから13年、このたび本誌が休刊されることになり、寂しい思いがする。
私が当時勤務していた総合病院では1999年の大晦日、すべての役職者が集められ、病院に待機した。これから起こるかもしれない事態に備えてのことだった。午前0時を過ぎて新年を迎えてからもしばらく待ったが、何事も起こらなかった。もっとも心配されたのは電気、水道などのインフラの異常だったが、どうということはなかった。これが、いわゆるコンピュータの2000年問題だった。
2000年に寄稿した文章に書いたことだが、その当時、将来「デジタルデバイド」(コンピュータを使用できる者とできない者との格差)が生じると言われていた。だが、コンピュータの使い勝手の進歩が速く、現在、デジタルデバイドは生じていない。この13年間に生じたもっとも著しい変化は、コンピュータの進歩と普及だろう。2007年にはスマートホンが普及し始めた。スマートホンだけではなく、そもそも携帯電話がコンピュータそのものと言えるから、一人が一台のコンピュータをもつに至った。
医療もコンピュータの発達に伴って、さまざま恩恵を受けた。心電図の読解はもはや内蔵のコンピュータのほうが人間より正確だし、臨床検査の結果が2時間足らずで出るのも、コンピュータが検査機操作の多くの部分を代行するようになったからである。CT検査や超音波検査による画像の3D化は、コンピュータの処理速度とメモリの飛躍的な増大によって可能になった。
インターネットの普及も急速だった。索引誌で文献を調べるのはとっくに時代遅れで、今では文献検索はすべてインターネットである。
ところが、精神医療はコンピュータの発達やネットワークの拡大からどれほどの恩恵を受けているだろうか?実は診断においても治療においても、あまり受けていない。
(2)精神科治療はどれほど進歩したか?
まず薬物療法だが、非定形抗精神病薬もSSRIも、2000年にはすでに出回っていた。2000年以降、それ以上に革新的な薬剤は出ていない。ただ、薬剤の研究方法には変化があった。それは、神経伝達物質の受容体と薬剤の作用機序を対比して研究できるようになったことである。
受容体の分類は年を追うごとに細分化されていった。薬剤の効能も、どの受容体に影響を与えるから、このような効果があるという説明の仕方が、医師向けの宣伝に使用されるようになった。
だが、受容体の種類と精神現象を一対一の関係で結び付けるには無理がある。精神現象はきわめて複雑な過程であることが推測され、ある薬剤の受容体への影響だけで説明できるはずがない。
受容体の研究は現在ただ今の流行に過ぎないだろう。研究者は論文が雑誌に掲載されることを欲する。研究者は掲載されてナンボの世界にいるから、トピックを追わざるをえない立場にある。だが、受容体の研究は必ずすたれる。いずれ受容体で説明できるのはここまでという限界が明らかになって、それ以上研究するのが無意味になるはずだ。
SSRIなぞは、その効果さえ疑われ始めている。SSRIの効果とされてきたものは、すべてプラセボー効果ではなかったか、という指摘がそれである。
次に心理的身体的アプローチ、すなわち精神療法、SST,作業療法、認知行動療法などであるが、それらが有効だったという客観的な報告はないと言ってよい。あると報告している文献はいくらでも存在するが、評価尺度に難がある。もしくは、対照群がない。
これらの心理的身体的アプローチは、いわば「愛情」と似たもので、「愛情」の「効果」が測定に馴染まないのと同じで、これらのアプローチを薬剤のようには測ることはできないという主張がある。そのような主張はうなずける面もある。だが、「愛情」に似たものなら、○○療法と名乗るべきではないし、まして対価を求めることに問題はないだろうか?
(3)現在盛んな「治療」は昔から盛んだった
私はプラセボー効果を、思い込みだと切り捨てるつもりはない。むしろ逆に、プラセボー効果によって改善や治癒をする患者がいる以上、プラセボー効果は大いに利用すべきだと考えている。
患者がいかに「良くなった」と実感できるかが最重要事項である。誤解を恐れずに言えば、「良くなった」と感じてくれさえすれば、寿命が短くなってもよいのである。(ここには、医療がいかに発達しても無限の寿命は得られないという諦念がある。ならば、とりあえずの苦痛を取り去ることが医療の最大目標ではあるまいか?)
世間の「健康事情」を見ると、サプリメントが栄華をきわめている。私が生まれてから、これほどのサプリメントブームはなかった。クロレラなどが喧伝された時期もあったが、市場規模は今よりもずっと小さかった。サプリメントメーカーは名もない会社が多い中、有名な酒造会社、写真会社さらに本物の薬を売っている製薬会社までがサプリメントに進出してきた。
むろんサプリメントにはなんの薬理作用もない。西洋の中世から盛んに行われた「瀉血」もなんの効果もない。現在では効果どころか「瀉血」は有害であることが分かっている。これらに共通するのはプラセボー効果である。
思えばプラセボー効果は有史以来、重用されてきた。神社のお札やお祓いが好例である。つい最近、私の祖母の時代まで、これらは霊験あらたかなものとして信じられてきた。伝統的な祭りも同じだ。祭りは五穀豊穣を願って行われることが多いが、無病息災を願うこともあった。
うなぎと梅干のような食べ合わせは「迷信」として排除されてきたけれども、お祓いや祭りを「迷信」とは呼ばない。それらには人心を安らがせる一定の効果があるからだろう。
現在のサプリメントにも同じことが言える。サプリメントには人心を安定化させる効果がある。値段が高いほど「有効」であるところも面白い。もっと実質的な効能としては、サプリメントによって大衆が無用に医療機関を受診することがなくなることが考えられる。サプリメントは自腹だから、国民医療費の削減に役立つかもしれない。
実は医療機関が行っている行為のかなりの部分がプラセボー作業だと私は考えている。精神医療も例外ではない。してみると医療とは古来、プラセボーだったことに思い至る。わずかこの13年間に何が進歩したかと問われても、千年単位で行われてきた医療の歴史を思えば、この13年間は千分の13でしかないと答えざるをえないのである。