院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

このたびの地震に寄せて(5)

2011-03-15 07:27:19 | Weblog
 東京からカップ麺やレトルト食品が姿を消したとはすでに報道されている。

 携帯ラジオ、懐中電灯、乾電池も姿を消した。ソニーやパナソニックなど大手メーカーは、大量の携帯ラジオを被災地に送る予定だから、東京では携帯ラジオはしばらく手に入らないだろう。

 実は当地、愛知県豊橋市でも、家電量販店に携帯ラジオは、もうない。

 東京在住の妹の話では、なぜか東京ではパンがないという。また、ペットボトルの水は姿を消したけれども、お茶はあるそうだ。妹の話では、東京は平静を装っているけれども、パニックが静かに進行していることが感じとれるという。

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このたびの地震に寄せて(4)

2011-03-15 00:21:53 | Weblog
 我が国では津波の被害ばかりが報道されている。福島原発の事故はその合間々々に報道されているような印象を受ける。

 しかし米国では、いまや庶民の関心は原発事故のほうに比重が大きい。スリーマイル島の経験があるからだろう。でも、スリーマイル島の事故では放射能漏れは少なかったはずである。

 なぜ米国の庶民は放射能をそんなに気にするのだろうか?いまひとつ理解できない。

 福島原発が爆発したとしても、死の灰は米国本土へは到達しない。それを、あたかもそうなるように米国のマスコミが煽っているのではなかろうか?

 米国は昔、太平洋のマーシャル諸島やクリスマス島で、いやというほど原爆や水爆などの核実験をやっていたではないか。死の灰が米国本土まで到達したという話を私は知らない。それはむしろ当然である。死の灰が米国本土までとどかない場所を選んで実験していたからである。

 同じころ、旧ソ連も北極海のノバヤゼムリャで水爆実験をしていた。シベリアに死の灰が降ったという話も聞かない。

 我が国の福島県から発生した死の灰が米国本土までとどくことは、むろんない。米国のTVキャスターは、日本の駐米大使を呼んで「なぜ福島原発事故で、米国の援助を受けないのか?」と追及した。キャスターの声は庶民の声である。だから、私は米国庶民は放射能を気にしていると察した。

 そのような感覚に私はある感慨を覚える。ほとんどの米国人にとって、クリスマス島はもう忘れられた過去の島なのだなぁ、と。そして日本人にとっても・・・。私も歳をとったと実感させられる。

 福島原発が壊滅的に壊れた場合、放射能は我が国のどこらへんまで達するのだろうか?

 広島の原爆投下の場合、放射能被害が及んだのは広島市内または県内を出なかったのではないか?少なくとも隣県の山口県や岡山県で広島原爆の放射能被害があったとは寡聞にして聞かない。

 第五福竜丸は核実験の爆心地から何キロあたりにいたのだろうか?その数字がわかれば、このたびの福島原発事故で避難する距離をドンブリ勘定ではなく、もっと科学的に決められるはずである。

このだびの地震によせて(3)

2011-03-14 07:46:38 | Weblog
 今回の一連の報道で最大の「ポカ」は、「被曝」の意味を「被爆」と混同させたことだ。

 「被ばく」と、ひらがなで伝えたのがいけない。しかも「被ばく者」という名称での報道もあった。これではまるで、ヒロシマ・ナガサキの「被爆者」と同じ扱いになってしまうではないか。

 医学用語でいう「被曝」とは、少しでも放射線に曝されることを指す。したがって、健康診断のX線撮影も「被曝」という。

 問題は「被曝」の量なのであって、「被ばく」、「被ばく」と騒ぐのは、誤解もはなはだしい。「安全な量」と言いながら、「除染」の場面を報道するのもおかしい。

 だから、文科系の者ばかりで政治やマスコミが運営されるのはマズイと、かねがね言ってきたのである。

 マスコミは早急に「被曝」と「被爆」の違いを報道すべきだ。

このたびの地震に寄せて(2)

2011-03-13 07:20:48 | Weblog
 これから復旧作業が本格化するだろう。その際、過去の経験が参考になる。

 阪神淡路大震災の時の資料が残っている。なかでも一級の資料は、当時、神戸大学精神科教授だった中井久夫氏が書いた『1995年1月・阪神淡路大震災』(みすず書房)である。

 彼は混乱の中、精神医療はこの緊急時にあたって何ができるかと問いつづけ、同教室で陣頭指揮をとった。

 すぐに、あらゆることを書きとめ、当時流布されたパンフレットまで集めて、後年のために書物に残した。本書は今は絶版となっているけれども、みすず書房はすぐに大増刷を始めるだろう。(そうすべきである。)

 本書には実践的な対応や、素直な感想が満載されている。以下のような現場での率直な感想は、今回、大いに参考になるだろう。

(曰く)震災当初、報道のヘリコプターの音がやかましく、救助の妨げになった。
(曰く)他県から駆けつける医師は、ときに横柄で「来てやっている」という感じで、自分では動かず、かえって邪魔になった。有名大学出身者にこの傾向が見られた。
(曰く)ボランティアが沢山来てくれた。何もできなくても彼らがいるという事実だけで、被災者には大きな支えと励みになった。
(曰く)研究者と称する人物が大勢乗りこんできて、アンケート調査などを始めたけれども、彼らは自分の手柄のことしか考えていないのか、被災地では迷惑だった。

 今後も「識者」による「解説」などが行われるだろう。そのような人々は、上記の4番目の人たちだから、被災者を研究材料としか考えていない。そのため、彼らの意見は本質的なところで外れているだろうと、私は思う。

 中井氏は震災の1年後に『昨日のごとく』(みすず書房)を著している。これも絶版なので再版してほしい。被災者のケアが長期にわたることが、これで分かる。今後の復興が大変なのである。

このたびの地震に寄せて(1)

2011-03-12 16:59:15 | Weblog
 時事ネタは書かないようにしているのだが、あまりに激甚な災害なので一言。

 今回の東北地方太平洋沖地震で、3歳児殺しの件がふっとんでしまったと思われる向きが多いのではないか?

 だが実際は違う。3歳児殺し事件は地震の日の朝から急に報道されなくなったのだ。これからも報道されないだろう。

 マスコミは精神障害者の犯罪は報道しない。先日の名古屋・金山駅の老女刺殺事件も急に報道されなくなった。もっと前の、精神病院で少年患者が男性看護師を刺殺した事件もそうだった。みなさん、お忘れだと思う。

 金山駅事件は精神障害者によるものだろう。だが、他の2件は精神障害による犯罪かどうか疑わしい。

 たまたま犯罪を犯した者が精神もわずらっていた可能性がある。ここには、精神障害→犯罪という図式は成り立たない。(だから、きっちり裁かれるべき犯罪かもしれない。)

 精神障害者の病に基づく犯罪は、金山事件のように、計画性がない。

 一方、3歳児殺しはリュックをもっていたし、看護師殺しは外出時にナイフを買ってきた。こういう計画性は、パラノイアでない限り、ふつう見られない。

 この辺の分別がマスコミはおろか、検事、弁護士、裁判官まで杜撰なので注意を喚起しておきたい。報道されてもされなくても、圧倒的多数の暴力的でない精神障害者が、こうした何もかも一緒くたにしたマスコミや法曹のために、おおいに迷惑をこうむっているのだ。

ジャーナリズムの対語

2011-03-11 11:56:05 | Weblog
 読者のみなさんは、「ジャーナリズム」の対語を知っておらるだろうか。

 中学入試の模試で、そのような問題が出て、困った。答えは「アカデミズム」だそうだ。答えを聞いてからも、意味がわからなかった。

 「アカデミズム」とは学問の世界のことで、あることを厳密に研究する。だから素人には難しい。

 一方「ジャーナリズム」は、難しいことを素人にもわかるように伝える部門である。

 このような両者の特質を対照的なものと見なして、出題者は問題を考えたのだろう。しかし、「ジャーナリズム」は政治や経済や、その他の複雑な事件も伝えるので、簡単に「アカデミズム」が対語とも言えないように思う。

 今の「ジャーナリズム」は、経済記事なぞ私には皆目わからない。素人にわかりやすく説明していないのである。それとも記者自身がよくわからないで書いているのだろうか?いつも疑っている。

 かつて作家の故伊藤整氏が、自分は経済学部の出身であるが、新聞の経済記事はまったく理解できないと言っていた。

 やっぱり記者自身がわかっていないで書いているのではないか。

友達の弁当

2011-03-10 13:44:01 | Weblog
 子供のころ、遠足などの行事以外でも、幼稚園や学校に弁当を持って行くことが多かった。学校給食の準備が完全には整っていない時代だった。

 小学校低学年だったか、つぶし麦まじりの弁当を持って来る子がいて、白米しか食べたことのない私にとっては珍しく思えた。「ああいうのが食べたい」と言って両親を仰天させた。池田隼人首相が「貧乏人は麦を食え」と言って顰蹙を買うだいぶ前のことだ。

 ロールサンドを持って来る子がいて、あまりのおシャレさにき驚嘆した。ロールサンドというのは、パンに具をはさむ従来のサンドイッチではなく、具をパンで巻いて、セロハンで包んだものである。当時が「走り」だった。参考までにその子は男子である。

 私の弁当はというと、母親が手抜きの性格のため、「のり弁」が多かった。「のり弁」というのは、ご飯の上に醤油をたらし、海苔を敷きつめたものである。おかずは卵焼きオンリーだった。手はかかっていないが金はかかっているというのが、母親の言い訳だった。

 今でも印象的に覚えている弁当は、黒こんにゃくと白こんにゃくを煮て賽の目に切り、それらを市松模様に並べた弁当だった。これには驚いた。金はかかっていないが、おそろしく手間がかかっている。

 語りぐさになっている「昼食どきに(弁当がなく)校庭でぶらぶらしている子」や「サツマイモのふかしたものだけが弁当」というような子は、私の時代、すでに見られなくなっていた。

女優・広末涼子さん

2011-03-09 08:41:42 | Weblog
 広末涼子さんが、なぜあんなに人気があるのかわからない。

 私は広末さんをデビュー当時から美人だと思ったことがない。あの程度の女性ならいくらでもいるではないかと思う。

 映画でいろいろと賞をとっているから演技がうまいのだろうか?映画やTVドラマをあまり見ない私には判断できない。たぶん、うまいのだろう。

 私は広末さんにセクシーさを感じない。そう言ったら妹は「(広末さんは)顔だけですでにエロだと思う」と答えた。

 このように感じる人が多いから、広末さんは人気があるのだなとわかった。

小児精神科

2011-03-08 08:15:43 | Weblog
 小児精神科が最近脚光を浴びている。小児の精神疾患は昔からあった。それがなぜ今、多くなってきたかというと、発見して治療するほど我が国が豊かになってきたということだろう。発展途上国では、まだ栄養とか教育とか伝染病への対応に追われていて、小児の精神疾患にまで手や目が向けられない。

 この数年での小児精神科の需要はすごい伸びである。小児精神科を標榜する病院やクリニックが激増している。でも内実はお寒い限りである。

 というのは、小児精神科関連学会から、「認定医」と認められている精神科医はまだ我が国で700名に満たない。それなのに、なぜ標榜が増えたのだろうか。

 それは医者が、何科を標榜してもよいため、勝手に小児精神科を名乗り始めたからに他ならない。私は精神科医だが、小児は恐くて診られない。将来ある子供を診るのは、大人の内科医が小児を診るようなものである(つまり、やってはいけないことである。)

 小児精神科は命には影響はない。だからと言って、トレーニングも受けずに小児精神科を標榜するのは、若い外科医がオーベン(指導者)抜きで勝手に手術をやるのと同じである。小児精神科は医者の情報を十分に集めてから、かかるべきである。

保健所長という存在

2011-03-07 11:25:46 | Weblog
 保健所長はみな医者である。というより、医師免許を持っている。だが、保健所長で臨床能力はない。名ばかりでも医者だから、行政能力もない。まぁ、保健所長は保健所の「お飾り」みたいな存在である。

 なぜ、もっと行政能力がある人に保健所長をやらせないのか?それは、保健所法に「保健所長は医師でなくてはならない」と定められているからである。

 保健所法は戦勝国アメリカの肝いりで造られたのだが、くだくだしいから経緯は省く。

 保健所長になりたい医師はほとんどいない。公衆衛生に興味があるという医者は少ない。では、どういう医者が保健所長になるのかというと、まずペーパー医者。彼らには、研修もなしに臨床をやってほしくない。そういう人の受け皿に保健所長はなっている。

 あと、臨床に疲れた医者。臨床でミスを犯した医者。臨床能力が自分にないと見限った医者。だから保健所長は医者でなくてはならない理由は何もない。

 保健所の仕事に医療監視というのがある。病院やクリニックを回って、適正な医療をやっているかどうか調べるのだ。

 病院やクリニックは医療に素人の役人が監視に来ても相手にしない。医者が監視に来ると相手にする。そういうときにだけ、保健所長が医者であることが役に立つ。

 行政側もそのことを知っているから、保健所法を換えよとは言わない。保健所長はふだんは遊んでいるみたいなものだ。

 妻が長く保健所長をやっていたから、上記のことは誤りではないはずだ。 

名古屋市役所の役人

2011-03-06 10:32:04 | Weblog
 名古屋市役所の役人にも一流と末流があるとは前回述べた。しかし一流は少数で、多くは末流である。一般企業では通用しない人物が多いのだ。それとも、役所にいるとそのような人物になってしまうのだろうか?

 本庁の財務局の役人には立派な人が多いし、よく働く。一方、出先機関の役人はほとんどダメである。私は昔から「成績がよいヤツほど性格が悪い」という俗説に疑問をもっている。私は「成績がよいヤツほど人柄がよく、悪いヤツほど性格も悪い」と高校時代から思っていた。(成績のよいヤツは、こう振舞えば相手がどう感じるかということまで、考えが及ぶ頭をもっているからだろう。)

 自分で言うのもナンだが、私ば誰でも知っている超一流有名高校の出身なので、同級生に有名企業の社長とか有名大学の教授とかが沢山いる。彼らは成績は抜群で、しかも性格がよかった。性格がよくなければ(オーナーでもないのに)社長になれるはずがない。

 本庁は成績のよいヤツが行くところだから、性格のよい人が多い。出先機関はその逆である。(むろん例外はある。)

 人をいじめるヤツも出先機関に多い。名古屋市に奉職していたころ、一緒に仕事をしていた保健師さんと私がいじめられた。あの時はくやしかったね、と今でも彼女と年賀状のやりとりをしている。

 出先機関の職員は働かない。あんなにヒマな職場は私にとって貴重な経験である。だいぶ前に述べたけれども、育休が明けないうちに次の子を妊娠して産休をとり、それを繰り返して10年以上に及ぶ保健師もいた。

 これも前に述べたが、終業時間前に帰る役人がいないかと、役所の前で見張っている変わった人がいた。そのため、終業時間の前には役人はすることがなく、ただ時計の針が進むのをボーっと待っていた。

 一流の役人はものすごく忙しいけれども、ダメ役人はとてもヒマだ。役人批判をするときに両者を一緒くたに批判する論調が多いが、それは正しくない。

名古屋の市議会議員

2011-03-05 13:57:35 | Weblog
 昔、私が名古屋市役所に「医師免許を持った役人」として奉職していたころ、市議会議員は役人に対して極めて横柄だった。むろん市議会議員全員ではないけれども、とくに与党の議員の横柄さは目に余った。

 普通の常識人ならどんな相手に対しても、丁寧さや謙虚さをもって接するはずだ。しかし、自分を何様だと思っているのだろう、そういう常識を欠く議員が目立った。

 役人の方も内心はバカにしているのに、議員に対してはペコペコしていた。もし逆らおうならば、どんな仕打ちに遭うかわからない。議会の資料を深夜まで作らされて、それが使用されないなんてまだよい。もしかしたら出世できなくなるかもしれない。終身雇用の(医者でない)役人は、生活がかかっているから、議員になんと言われようとじっとこらえなくてはならない。

 「議員が家業になってはいけない」という河村たかし市長の主張は、とりあえず役人にも支持されるだろう。しかし、やがて「減税日本」の議員のあまりの素人ぶりに嫌気がさすだろう。

 思い起こせば、野党にもひどい議員がいた。私が赴任した精神障害者リハビリ施設ができるとき、少なからず地元の反対があった。そのため、リハビリ施設がある地元選出の野党議員は、当時先進的といわれた同施設にさまざまな嫌がらせをしたという。

 その後だいぶだってから、その議員は収賄罪で失脚した。もともと人望がないから、誰もかばってくれなかった。

 この野党議員は、自分が反対していたリハビリ施設で工事があったとき、「他に業者がいなければ、この業者にやらせてくれ」と臆面もなく言ってきた。「よくやるな」と当時の私はにがにがしく思った。競争入札が行われなかったので高くついた。

 平成3年、私はその施設から全く別の病院に移った。せいせいした。役人による医者いじめも当時はあった。議員もそうだが、役人にも一流と末流がある。

 私は終身雇用でないから良かったが、普通の役人たちは身軽に動けない。気の毒に思う。私が役所を去って20年近く。その間、一緒に仕事をした役人たちは、かなりの数が定年を迎えた。

 (註)収賄罪というのは今や「犯す」のではなく、「造られる」ものである。「越後屋」みたいなあからさまな収賄というのはありえない。収賄罪はときどき検察が屁理屈でもって「造る」のだ。

河村たかし名古屋市長

2011-03-04 14:04:48 | Weblog
 河村たかし氏の政党、「減税日本」は、今回の選挙では勝つだろう。それは、おおかたの人が考えていることだから、この欄には馴染まない。

 「減税日本」は、かつて政権を取ったことがある「日本新党」に似ている。ポピュリズムであるところが似ている。

 「日本新党」は、細川護煕元総理大臣の個人政党だった。「減税日本」も河村氏の個人政党である。「日本新党」は瞬く間の瓦解してしまった。今、細川氏以外に「日本新党」の政治家を思い出せる人がいるか?いないだろう。

 「減税日本」も同じ轍を踏むだろうから、今のうちに言っておく。この選挙の次の選挙で「減税日本」は消えるだろう。

 河村氏は、名古屋市役所の役人たちに極めて評判が悪い。(名古屋市役所の役人に個人的に聞いた。)役人に好かれないというのは、良いことでもあるし、悪いことでもある。だが、好かれなければ長続きしないのも事実である。

 減税なんてできっこない。いっときできても、ずっとはできない。

 市議会議員を減らすというのは賛成である。憂国の士なんて、ほとんどいない。愚劣なヤツのほうがよっぽど多かった。7年間、名古屋市(旧)衛生局にいた私が言っているのだから本当だ。

 名古屋市議会については、また次回。名古屋市の役人については次々回。

 ちなみに、私の妻は名古屋の高校で河村氏と同じキャンパスいた。(学年は妻が下。)当時、河村氏は学年を超えて有名な存在ではなかったそうだ。

尖閣諸島問題

2011-03-03 13:31:26 | Weblog
 わが国がかかえる領土問題は3つある。ご存じのように、北方領土、竹島、尖閣諸島である。だが、尖閣諸島問題は、前2つの問題と根本的に性格が異なっている。

 前2者は歴史的に長期の過程を経てきた問題であるのに対して、尖閣諸島問題は最近になって、中国が横紙破りのように勝手に言い出したことである。わが国の領土を自分たちの物だと突然主張し始めただけであって、尖閣諸島は間違いなくわが国の領土である。そこには、もともと問題なぞ存在しない。

 ロシアは意外に領土には淡白な国である。ソ連が崩壊したとき、ロシアは隣接諸国とさしたる対立はしなかった。北方領土に固執し、外相が訪問したりしているのは、ロシア世論向けのパフォーマンスである。あまり過剰に反応しないほうがよい。プーチン政権初期のころ、2島返還までは話し合いが進んでいたのだから・・。

 話は北朝鮮だが、近々、北朝鮮は崩壊するだろうと言われている。たぶん、するだろう。その時に北朝鮮は韓国に支配されるようになると、漠然と思っている向きが多いのではなかろうか。しかし私は、そうはならず、中国が支配すると睨んでいる。あれこれ理屈をつけて、自分の物だと言い張るだろう。中国は帝国主義の国である。新疆ウイグルもチベットも支配してしまった。そこがロシアや韓国と決定的に違うところである。尖閣諸島も同じ態度で来るだろう。

 海上保安庁の船に体当たりした船長が、中国で英雄のように迎えられたことを不愉快に思っている日本人は少なくない。海上保安庁が船の賠償請求をしたところ、「日本が反省せよ」なぞと言ってきた。そういう国なのである。中国は・・。

 一海上保安官が YouTube にあの映像を流したとたんに、あれだけ居丈高だった中国が急に何も言わなくなった。物的証拠の威力は大きい。

 あのビデオは数時間に及ぶという。私はビデオで公開された以外の部分を見たい。マスコミは見たいとは思わないのだろうか?とくにビデオが始まる前の映像が見たい。おそらく、そこには中国人船長による唾棄すべき挑発の態度が映っているだろう。その部分は公開しない方が国益にかなうのだろうか?それとも政府はなんらかの「カード」として、船長の態度を温存しているのだろうか?

 私がマスコミ人なら、なんとかその映像をスクープしたいと考える。マスコミは映像を入手したくないのだろうか?マスコミはアホだから、もしかしたら、公開された映像の前にさらなるショッキングな映像があるということに思い至らないのかもしれない。

どうなった?原発反対運動

2011-03-02 15:54:23 | Weblog
 電力会社による原発のテレビCMが盛んである。やれ「CO2を出さない」とか、やれ「イメージだけの広告ではいけないと思う」なぞと、大枚をはたいて宣伝している。

 これは、良く言えば啓蒙活動、悪く言えば反対派封じ込め作戦である。でも、かつてあんなに盛んで戦闘的だった「原発反対運動」とそのアジテーターはどこに行ってしまったのだろうか?地元ではまだ反対運動が行われているかもしれないが、報道されなくなった。「報道されなければ、ないのと同じ」と言ったのは故山本夏彦氏である。

 アジテーターは電力会社に買収されたのだろう。彼らは地元の人間ではなく、多くは売名が目的だから、すぐに買収されてしまう。1000万円くらい積まれれば、よい小遣いになるだろう。原発製造コスト全体に比べれば安いものだ。

 原発反対派の論拠は2つあって、一つは放射能への恐怖である。もう一つはチェルノブイリのような原発事故である。「(そんなに原発が安全だというなら)東京に原発を造れ」という原発反対派のスローガンには説得力があった。

 だが、原発反対派とアジテーターが、あまり触れない(思いつかない)害が原発にはあるのだ。それは「熱公害」である。本欄では何年か前に「熱公害」について指摘しておいたけれども、未だに言及されない。(専門書では私より以前に警鐘が鳴らされている)。

 原子力にはこれまでのエネルギーにはなかった、ひいでて異色な特徴がある。他のエネルギーがすべて太陽エネルギー由来であるのに対して、原子力だけは太陽エネルギーに依らないのである。

 マキや水力が太陽エネルギー由来であることは誰にでも分かるだろう。実は石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料も、太古の太陽エネルギーであって、過去の蓄積を現在消費しているに過ぎない。くどいようだが、原子力だけは人工的なエネルギーである。つまり太陽とは無関係に造られるエネルギーである。そのため、自然界のエネルギー・バランスを乱す恐れが大いにある。

 どのような形でバランスが崩れるかまだ分からない。もっとも初めに出てくると想像されるのが「熱公害」である。原発には冷却水が必須である。今は海水で原子炉を冷やしている。すると、近辺の海水温が上がって、海の生態系が崩れるだろう。ひいては
、本物の「地球温暖化」が起こるかもしれない。

 電力会社が「原発はCO2を出さない」なぞと呑気に宣伝しているのは噴飯モノである。電力会社の担当者が「熱公害」のことを知らずに宣伝しているならアホだし、知っていて宣伝しているのなら悪どい。

 むろん火力発電でも「熱公害」はおこりうる。ただ、火力発電も元は太陽エネルギーである。それに引き換え原子力発電は太陽エネルギーと無関係の人工的なエネルギーである。怖いのはまさにその点にあるのであって、決して放射能ではないことを今ここで明言しておきたい。