院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

トラウマ概念の恣意性

2014-03-18 04:07:14 | 心理

アメリカ催眠学会HPより引用。)

 「獅子は千尋の谷に子を落とす」、「可愛い子には旅をさせよ」、「艱難なんじを珠にす」という言葉がある。苦労してこそ人間は成長するという話だろう。

 これらは、成長のためにはストレスが必要だという意味である。だが、ストレスはときに「害」になったりもする。「害」になったときには、わざとトラウマという言葉を用いる。

 幼少時のストレスは将来の人間形成にどんな役に立つのか、または害になるのかが前もって分からない。害になったときに限ってトラウマと称する。つまりトラウマとは後付けの名称なのだ。そういうのって、思い切り恣意的ではあるまいか?だから私はトラウマという概念が好きになれないのである。

医学博士号の取り方

2014-03-17 04:54:51 | 学術
 2014-03-13 の記事で、医学博士号は学位の中でもっとも価値が軽いと書いた。医学博士号の取り方を述べよう。

 最終段階から先に言うと、最終的に博士論文は博士号を出す大学の教授会を通らなくてはならない。医学部の教授会は基礎(生化学、病理学など)の教授と臨床(内科、外科など)の教授合わせて50人ほどから成る。

 教授会に出される論文はすでに出版されていなくてはならない。出版媒体は、それこそ Nature でもよいし、先日来書いてきた誰も読まない学内雑誌でもよい。この段階で出版媒体が問われないから、多くの医者は掲載が楽な学内雑誌に載せるのだ。大学院生であってもそうでなくても、ここは同じである。

 教授会の先生たちは、みなよく論文を読む。なぜかというと、教授連が真面目だということもあるが、論文の内容はほとんどが自分の専門外なので、若い学位希望者に馬鹿にされたくないということもあるだろう。論文の(内容ではなく)体裁がおかしいなら、ここで必ずはねられる。(だから、小保方さんの学位論文が、なぜ教授会を通ったのか不思議なのだ。少なくとも無意味な文献欄は誰が見てもおかしい。)

 教授会で過半数の支持を得れば学位が認められる。(ほかに面接試験や語学試験があるのだが、本質的ではないので省く。)実際は過半数を割ることはないらしい。だが、たとえ過半数に達していても、7人も8人も不支持者が出ると、担当教授はものすごく恥ずかしいのだそうだ。

 だから、担当教授は学位論文を綿密に読む。査読者のいない雑誌なら担当教授が読むしかない。(先日、小保方さんの学位剥奪よりも前に、大学院側の学位授与権を剥奪せよと言ったのは、そのためである。)

 そこで、読者が疑問に思われるだろうところは「担当教授はどうやって決まるのか?」というところだろう。大学院生でなければ、これはもうコネというよりない。まったく知らない人が「教授会に出してください」と教授のところに論文をもってきても、「はい分かりました」とはならない。

 教授会に学位論文を架けられるのは教授の専権事項である。この権限が、教授が若い医者の人事に口を出せる権力のひとつだった。直接は言わないが、僻地への赴任を示唆されることもあった。(現在、そのようなことはないらしい。その代わりに僻地に行く医者がいなくなってしまった。)

 1970年ころ、人事に利用されるくらいなら学位は必要ないと、「学位返上運動」が起こったことがあった。学生運動の鎮静化とともに、その運動も消えたが。

 学位授与には大学院を出るコース以外の方法があることを、上に少し書いておいた。教授に直接頼んで、論文だけを教授会に架けてもらう方法がそれである。このような方法で授与された博士を「論文博士」という。効力は大学院博士と同じだが、大学院(4年)よりも2年多く経験が必要である。

 ここまで読まれて、読者はある可能性に気付かれただろうか?それは担当教授さえ決まってしまえば、誰が学位論文を書いてもよいということだ。担当教授に謝礼を払って彼に論文を書いてもらうことが、むかしはあった。医学博士号が金で買える時代があったのだ。(むかしはバレてもスキャンダルにならなかったが、いまはなる。)

NHKドラマ『東京が戦場になった日』を見て

2014-03-16 00:23:55 | 歴史
 表題のドラマは東京大空襲を、警視庁消防隊を軸にして描いたドラマである。泣けた。

 母は、広島の原爆で30万人が死亡したことがテレビで回顧されると、「東京大空襲でも10万人が死んだんだよっ!」とムキになることがあった。母は東京大空襲を経験している。

 そのころ父は満州にいた。敗戦後、シベリアに抑留され、2年後に生還した。父はロシア兵への恨み言は語らなかった。日本が戦争に勝っていたら、日本も同じようなことをしただろうと考えていたフシがある。

 母はまだ存命で東京にいる。父は20年以上前に死去した。妹はそのまた20年以上前に小学校6年生で死去した。

   父偲ぶ妹偲ぶ梅見酒  ひとし

STAP細胞は存在するのか?という愚問

2014-03-15 18:14:06 | マスコミ
STAP論文、重大な過誤 小保方氏ら撤回へ、理研が中間公表


 STAP細胞論文の一件について、理研の記者会見の報道を見た人は多いだろう。

 会見で、「STAP細胞はほんとうに存在するのか?」という質問が記者からあった。それに対する回答は「第三者の研究(追試)に待ちたい」だった。この回答に対して、翌日、私が見た範囲の新聞では、「歯切れが悪い」、「先送り」というネガティブな表現が使われていた。

 やっぱりマスコミはこの程度なのだなと私は思った。実は「第三者・・」という言明が科学的にもっとも正しい。現在はあるともないとも言えないのだ。

 別の質問に対して、回答者が記者に「サイエンスは多数決で決めるものではないのです」と、小学生でも諭すように言っていたのが印象的だった。

 このような杜撰な論文の投稿を許した理研の監督責任は?という質問もあった。記者は理研を学校だとでも思っているのだろうか?研究者が提出する論文にとやかく言わないのは、研究所としてむしろ健全なのだ。

 私は記者会見の模様の一部をネットのライブで見た。丁度そのとき、ある記者が専門用語(分子生物学か?)を使って研究内容について質問していた。当然、会見場には学会場のように専門用語が飛び交った。玄人対素人の論戦の典型だった。他社の記者たちも、これにはさすがに辟易としたことだろう。

 記者会見全体をとおして、理事長の野依さんが気の毒だった。学者は腹芸ができないから。


最初は評判が悪かった

2014-03-15 05:12:08 | 社会

(赤坂迎賓館。Wikipedia より引用。)

 赤坂迎賓館はきわめて評判が悪かった。ベルサイユ宮殿のミニチュアみたいなところに西欧の王族を迎えるのかと。その声が届いたのか京都迎賓館が造られ、こちらは日本の伝統技能が満載で、賓客にもすこぶる評判がいいらしい。


(京都迎賓館。Wikipedia より引用。)

 日本アカデミー賞も最初はたたかれた。アメリカにアカデミー賞があるのに、日本国内だけでちまちまと内輪褒めをして、同じ名称の賞を出すのはみっともないと。いま、そんなことを言う人はいない。

 東京ディズニーランドもそうだ。最初は千葉の田舎の湿地帯を買い占めて勝算はあるのか?千葉なのに何が東京だ!必ず閑古鳥だと言われた。だが、結果はご覧のとおりである。

 実は私も最初は、日本アカデミー賞も東京ディズニーランドも潰れると思っていた。

フロッピーディスクのプロテクト破りとクローン技術

2014-03-14 01:09:54 | 生物

(誠文堂新光社刊。)

 まだコンピュータソフトがフロッピーディスクで供給されていた20年前、フロッピーディスクにはコピーされないようにプロテクトがかかっていた。プロテクトを知恵の限りを尽くして破ることが流行って、そのための解説本が売られた(上図)。

 最後は、プロテクトの破り方が分からなくても、元のフロッピーディスクを丸ごとコピーしてしまえば、プロテクトごとコピーできて、少なくともそのフロッピーディスクは使えるという発想が出てきた。

 中味を詳細に理解できなくても目的を達成できることがある。クローン技術がそれである。生殖なしでクローン生物を造れるようになったが、できた生物の仕組みの細部までは分からない。

 上あご下あごの遺伝子と舌の遺伝子は別のはずである。しかし、新しい個体(赤んぼう)は、舌はあごのサイズより必ず小さく、口を動かしても上あごと下あごが絶対に舌を噛まないように巧妙にできている。この仕組みを詳細に知ることは、クローン技術よりも難しいだろう。

 クローン技術は、プロテクトごとフロッピーディスクをコピーしてしまうことと非常に似ている。

医学博士号のやりきれない軽さ

2014-03-13 06:14:06 | 学術
(文芸社刊。)

 医学雑誌でもっとも権威があるのは、ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンである。続いてランセットやJAMAがある。

 日本の大学の医学部は、OBなどを科目横断的に集めて、○○大学医学会という学会を組織していている。会員が100名以上いて、定款や理事を定めて日本学術会議に申請すれば、学会を名乗ることができる。このような学会は自らの機関誌をもっている。

 2014-03-10 の記事で、格が低い雑誌と言ったのはこのような機関誌を指している。博士論文はこれらの雑誌なら教授がOKを出せば載せられる。ただし、印刷代(100万円くらい)は自腹である。事実上、レフェリーはいない。だからこの雑誌を読む人なんていない。(会員には雑誌が送られてくるが、誰も読まない。全国の医学部図書館にも寄贈されるが、借り出す人はいない。)

 日本の医学博士の多くはこのような雑誌に論文を載せて博士号を貰ったものである。そのため、医学博士号は学位の中でもっとも軽い学位だと見做されている。(文学博士号などは単行本の一冊も出していないと取れないから、医学博士よりずっと難しい。)

冒頭の本の著者のように、医学博士には医者でなくてもなれる。むしろ、こういう人の医学博士号の方が価値があるだろう。

* * * * *

 理研の小保方さんの博士論文にケチがつけられている。米国立衛生研究所の記述をコピペした疑いと、本文と関係がない意味不明の文献欄がついているという。「審査員」は関係教授連だとか。理学の世界にも誰も読まない雑誌があるのだろうか?理学博士号も医学博士号と同じく、お軽いのだろうか?中立で厳しいレフェリーの査読をクリアしていないのなら、誰も読まない。

 ただ、本文に引用されていない変な文献欄がついているといったお粗末なことは、医学博士を大量生産するための誰も読まない機関紙でさえめったに見られないことである。

 小保方さんの学位剥奪か?と報道されているが、冗談ではない。本末転倒である。剥奪されるべきは大学院側の学位授与権である。論文導入部のコピペだって、大学院側が黙認した可能性が大きいからだ。

研究発表は静かに行われ、静かに追試されるべき

2014-03-12 22:01:53 | 学術
 STAP細胞の共同発表者、若山照彦山梨大学教授は愉快な人だと思った。というのは、STAP細胞が発表されたとき、「僕が世界で初めて冷凍マウスからクローンマウスを作るのに成功したときには、こんなに注目してくれなかった」とにこやかに語っていたからだ。

 むろん私も知らなかった。だが18年間冷凍したマウスからクローンマウスができれば、冷凍マンモスのクローンを作る道も開けるので、画期的な仕事ではあるのだ。元の仕事を知らないのだから、その技術に再現性があるのかどうか、そもそも追試が行われたのかも私は知らない。

 だが、多くの研究発表とはそうしたもので、研究者の間でだけ発表が知られ、追試が行われ、再現性が証明されたり証明されなかったりしているのが本来の姿である。それらは大衆が知らないところで行われている。

 われわれはiPS細胞が発表された2007年には、iPS細胞について何も知らなかったではないか。STAP細胞もそのようにひっそりと発表されていればよかったのだ。再現性が証明されなければ、この発表は静かに消えていったはずである。そして、発表されたことも消えていったことも、大衆は知らなくてすんだ。今回のSTAP細胞のごたごたは、理研が大々的にテレビ発表してしまったことにも大きな原因があるのだ。

雛飾りに見る格差

2014-03-11 00:08:50 | 社会
 この前の日曜日、渥美半島に遊んだ。民俗資料館とか地元博物館を回ったが、どこでも雛飾りのオンパレードで飽きてしまった。

 下の写真は終戦直後の雛飾りである。大衆が食うや食わずの戦後の混乱期に、このような雛飾りを飾っていた家があったのだ。


浜松市HPより引用。)

 写真の御殿はどこの国の建築だか分からないようなデザインだが、明治期の雛飾りには本式の寺社建築の御殿がついていたものもある。

 私の幼少期にはまだ華族の末裔が町内におり、毎年、御殿を組み立てるのに宮大工を呼んでいた。寝食分離(寝る部屋と食事の部屋は別にしよう)が叫ばれていた時に、雛飾りに宮大工を呼ぶ家があったのだ。

 華族の末裔の雛飾りは明治時代の作である。明治時代はまさに「おしん」の時代で、大根飯で12歳まで育って奉公に出された家があった一方で、金持ちの家では雛飾りごときに宮大工だ。

 現在、マスコミは格差社会と言うけれど、私の幼少期にはもっと格差があったし、明治時代には格差なんていう生やさしいものではなく、もう別人種だった。

   土雛を昭和レトロの覚へとす  拙句

(妻は幼少期の土人形の雛飾りをまだもっている。)

小保方さんや理研を責めてはならない

2014-03-10 20:58:10 | 学術

nature publishing groupe より引用。)

 論文を投稿したことがある人なら知っていることだが、レフェリー(査読者)からの返事には3通りある。不採用と条件付き採用と無条件採用である。無条件採用は、よほど格の低い雑誌でなければ、ふつうはない。

 レフェリーは頭が下がるほどに投稿論文を読みこんでくれる。そして、ほんのわずかな矛盾でも見つけ出して指摘する。レフェリーは無償でそれをやる。私はレフェリーから返事をもらうたびに、いつも感謝していた。レフェリーはケチを付けるだけが仕事ではない。論文に少しでも見るべき点があれば、そこを伸ばすようにアドバイスをくれる。

 レフェリーはいつも、この論文をこれまでの常識と合わないという理由で不採用にしたら、ノーベル賞級の発見をボツにしてしまうかもしれない、という不安をもっているそうだ。

 レフェリーは論文の内容を自分で追試するわけではない。だから、新規性と説得力がある論文は取りあえず掲載して、再現性の証明は他の多くの研究者に任せる。その結果、再現性のない論文は闇へと消えていく。そのような論文は山ほどあるのだ。雑誌に掲載されるとは、そういうことである。その点についてはすでに指摘しておいた。(2014-01-31)

 このたびのSTAP細胞の論文も、闇へ消えていく論文の一つだったに過ぎず、別に珍しいことでもなんでもない。小保方さんや理研の人たちに悪気なんて全然ない。大きく取り上げておいて、間違いだと分かると袋叩きにするのがマスコミのいやらしいところだ。

 追試で再現性が認められないとバレるのが前もって分かっているのに、論文を投稿するバカはいない。自分のところでは確かに結果が出たから、しつこく再投稿したのだ。小保方さんや理研を責めてはならない。

 論文が雑誌に掲載されることがゴールなのではない。これから歴史の風雪に堪えていけるかどうかが試されるスタート地点に立っただけなのだ。

「見立ての句」は、やはりいけない

2014-03-10 06:08:33 | 俳句
 「松を剪定した。松もさっぱりして気持ちがよいことだろう」という言い方があるが、松が気持ちがよいと感じるはずがないので、例えば次のような句は「見立ての句」といって俳句としてはアウトである。

  松手入れ松は気持ちがよささうに

 だが、私が所属する名古屋の俳句結社では、人ではなくモノを主語にするケースが見かけられる。へたをすると「見立ての句」になってしまう。次の俳句を昨日詠んだ。たいした俳句ではないが・・。

  風車群河津ざくらを足下に見

 この句は「風車群」が「河津ざくら」を見ているようにも読める。だが、主語は私とも読めるので、ぎりぎりセーフか?


(渥美半島蔵王山から見た発電風車群。)

 昨日の中日新聞愛知県版の俳句欄に次の句が採用されていた。

  紅白の鯉春の水たのしめり M.S.

 これは鯉が楽しんでいると作者が思い入れしているから、アウトだと思う。さらに言えば、季語「春の水」は「雪解水」を意味を内包しており、季語「寒の水」よりは暖かいが、季語「水ぬるむ」よりは冬の厳しさが残る。季語が妥当かどうかは微妙。助詞を省きすぎの感も。

 虚子は思い入れを嫌って「客観写生」を強調した。「客観写生」でありながら、心情が分かる句が最上である。それを私は「主観写生」と呼んだことがある。(2012-09-20)

BSの旅番組、ここが残念

2014-03-09 06:02:31 | レジャー
ヨーロッパ旅行(ドイツ・オーストリア)


 ゴールデンタイムの地デジのテレビは、どのチャンネルでも芸人がギャーギャー騒いでいてやかましい。こんな番組で視聴率が稼げるのだろうか?

 仕方なくBSを見る。外国を訪れる旅番組がけっこう面白い。地元で人気のレストランに入ったり、ツアー旅行ではまず行けない裏路地に行ったりする。

 道案内はたいてい女優である。惜しむらくは女優に語彙や表現力がないことだ。料理だと「おいしい~」、「やわらか~い」、「プッリプリ」の3語くらいしか出てこない。建物なら「おおきい~」、「すご~い」、「伝統を感じさせますね」程度だ。

 私が番組の制作者だったら、学生でも売れない作家でもよいから表現力がある人間を同行させる。彼らに食レポや建築レポの原案を作らせて、それを女優に言わせれば、旅番組の品質は格段に向上するはずである。

 旅番組の撮影に連れて行く、ただし表現力の優れた者に限るとでも募集すれば、自腹でも参加したいと申し込んでくる人間が必ずいる。番組制作者は何故それしきのことをやらないのだろうか?

(それともプロが表現するとかえってうるさく、視聴者の想像力を邪魔すると考えているのだろうか?)

うつ病のスクリーニング検査って何?

2014-03-08 06:40:17 | 医療

漢方専門・大手町薬局HPより引用。)

 社員50名以上の事業所に、(うつ病の原因となる)ストレスを測る検査を義務付ける法案が修正されて、きのう可決された。どこが修正されたかというと、「義務」が「希望者」に変わった。

 修正されてもされなくても、この法律には首をかしげざるをえない。というのは、精神科医の私が「うつ病を予知するストレスを測る検査」なるものを知らないからだ。そのような検査があって、本当にうつ病の予知的なスクリーニングができるなら、ぜひとも使いたい。

 その際、その検査は何万人もの人で実験されて、5年も10年も追跡調査され、検査結果がうつ病の予知に本当に役立つことが科学的に証明されていなくてはならない。だが、そんな実験が行われたとは聞いたこともない。(うつ病の発生頻度は大きくはないから実験の母集団は十分に大きくなければならない。また、発病まで何年かかるか分からないので調査期間も十分長くなければならない。)

 うつ病の原因はストレスとは限らない。ストレスが何もない人がうつ病になることは多い。最近、「うつ病」という疾患単位と「うつ」という正常な感情状態が、めちゃくちゃに混同されていることは前に指摘した(2013-11-03)

(こういう検査が義務付けられると、検査の考案者は版権によってものすごく儲かるはずだ。)

(このニュースの新聞での扱いはとても小さかったので、みなさんは気づかれなかっただろう。テレビニュースでは取り上げられさえしなかった。でもこれは、むかし結核についてレントゲン撮影が義務付けられたのと同じくらいの大ニュースだと思う。)

ビットコインとスポーツ選手のサイン

2014-03-07 06:07:23 | 経済

サッカーキングHPより引用。)

 テレビ番組「なんでも鑑定団」を見ていると、スポーツ選手のサインが高値で取引されていることが分かる。愛好家には有名選手のサインはたいへん価値があるらしい。アメリカではサインビジネスというのがあって、業者が用意した色紙に有名選手が流れ作業のようにサインをして謝礼をもらうことがあるという。

 私はプロスポーツを見ないし、たとえ王、長嶋、ベーブルースクラスの有名選手であっても、彼らのサインを買おうとは思わないから、私にとってサインは猫に小判であるが・・。

 そこで考える。サイン愛好家にとってサインはお金のようなものである。だからサイン好きの建築家に設計料を支払うのに、サインを何枚も与えればそれで取り引きが成立するのではないか?その建築家はもらったサインを別のサイン愛好家の八百屋に譲って、野菜や果物に変えられるのではないか?

 そこで思いつくのは、ビットコインとはビットコイン愛好家の間だけで通用する通貨ではなかろうか?だからみんながビットコインに魅力を感じなくなると、サインと同様に価値がなくなる。愛好によって支えられている価値ならば、サインでなくて美術品でもよい。むかしは貨幣の代わりに米が使われた。
 

 さらに突き詰めると、ビットコインでもサインでも美術品でも米でもなくて、そもそも普通のお金でよいではないかと、話は元に戻ってしまう。価値とは愛好と信用でできている言い切ってもよいか、経済学に詳しい人に教えてもらいたい。

 銀行の金庫がものすごく分厚いのはおそらく実用のためではない。実はその必要以上の頑丈さを大衆に見せることによって、自らの信用を増そうとしているのではないか?要するに銀行の金庫はプロパガンダ用の見世物なのではないか?

これはすごい!最相葉月著『セラピスト』

2014-03-06 06:01:32 | 読書
(新潮社刊。)

 すごい本が出た。ノンフィクションライター最相葉月(さいしょうはづき)による『セラピスト』がそれである。

 最相葉月は2006年『絶対音感』というノンフィクションによって世に出た。私も読んだが、途中からつまらなくなり、大部さに投げ出してしまった。

 このたびの『セラピスト』はおそらく「カウンセリング(心理療法)って効くのかよ」という最相の素朴な疑問から取材に入ったのだと思われる。彼女はまず臨床心理士の故木村晴子から「ジャーナリストが心理療法を知りたいのなら、まず自分自身を知らなくてはなりません」と言われ、大学院の心理学科に入学する。

 河合隼雄の箱庭療法や中井久夫の絵画療法を糸口に取材が続くのだが、それらへの理解は舌を巻くほどに正確で深い。私は1975年から2年間、中井のシュライバー(面接の筆記者)に付いたが、最相の記述はまるでそれらを当時から見ていたかのごとくに生き生きとしていて、何も加えられず何も省かれていない。

 そして自分自身がクライエント(依頼者、患者)となって、心理療法のキモを理解していく。そして、セラピストとクライエントの間に行われるのは、セラピストが自らの全人格を賭した作業であり、「効くのかよ」という問いを超えた営みであることを知る。本書には書かれていないが、中井の言う(最良の治療は)「医者を処方する」ことだという理解に最相は達したようだ。

 最相は「治るということは、必ずしもいいことではないのですよ」という河合の言葉に納得してしまう。だから本書には、カウンセリング(心理療法)が効くとも効かないとも結論は出されていない。だが、取材に取り掛かったときの筆者と、本書を上梓したときの筆者が明らかに変化していることが分かる。

 最後に最相自身がある心の病であったことが明らかにされる。少なくとも彼女は本書を書くことによって生きやすくなったことは確かである。取材対象への理解といい大量の文献の咀嚼力といい、最相が精神科医となったとしたら、一流のそれになれるだろう。

 彼女の力量が随所に感じ取れる。この本はどんなプロのセラピストが書いた本より公平中立で分かりやすいから、一読をお薦めする。