いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

学校スポーツの体罰。 corporal punishment in school sports

2013-01-09 20:00:47 | 日記
 (1)生徒の「いじめ」も教師、指導者の「体罰」も家庭の「暴力」も根本構図は同じだ。「強い」立場にあるものが「弱い」立場にあるものに「優越感」を抱き「自己」の欲望をぶつけて「征服感」をはけ口として「満足」する構図だ。人間としての「度量」の低さだ。

 それぞれに「密度」の違いはあるが、子どもは当然として人間の未成熟からくる自己規制、統制機能欠如、不足からくる「原始的世界」の必然性だ。人間形成、成熟を補助する学校教育(ここでは初等、中等教育)、家庭が生徒も教師も親も同じ根本構図の構成に陥っているから、チェック制御するものがなくて「いじめ」も「体罰」も「暴力」もなくならないわけだ。

 もちろんこの「原始的世界観」は全体の健全な普遍的「博愛精神性世界観」の中では目立つけれど、特殊な領域にあることも事実だ。古くて新しい誰もが存在すると思う問題でもある。

 (2)昨年12月に大阪の市立高校のバスケ部でキャプテンが顧問教師からの体罰(corporal punishment)を理由(本人手紙)に自殺したと見られることがあきらかとなった。
 自殺した4日後(報道)に学校が実施した部員対象アンケートでは、多くの生徒が体罰を経験、目撃しており、「体罰」とはビンタ、たたく、蹴る(報道)という傍若無人ぶりだから、暴力行為だ。府警は刑事事件として捜査に乗り出す。

 体罰は特にキャプテン生徒に集中して繰り返されていたという。キャプテンがどういうシステム(部員間の推薦、監督・顧問の指名など)で決定していたのか不明なので、体罰がキャプテンに集中した「心理(psychology)」は分からないが、どんな理由にせよ報道されている内容、当該者の自殺という結果から学校スポーツという前提以上の適切性を欠く非人道的な行き過ぎであったことは間違いない。

 (3)事件4日後にアンケートまで実施して同公表がそれから数週間もたってから行われたというのも、教育委員会、学校側の対応、問題の深刻さを省(かえり)みない責任放棄は、過去の教訓がまったく活かされない教育行政の無能ぶりには驚くばかりだ。

 ひんぱんに集中してキャプテンにその他部員にも行われた顧問教師の体罰となれば、学校関係者が把握できないはずもなく、見逃していた可能性は大きい。仮に把握できていなかったすれば、それは学校教育の職務放棄であり、子どもを預けることなど不可能な体質といわざるを得ない。

 (4)高度な専門スポーツ指導者からは、時には体罰(ほかに適切な表現は見当たらないが、気合入れ)も必要なことがあると聞くし、特に女性アスリートを指導する場合には、スキル向上には「言って聞かせる」より「体罰」(同)が必要だと公言するのを聞いたことがある。
 いかに高度な専門スポーツ分野といえども、これでは指導者の自己満足の非人道的理念構図だ。

 双方に結果として名誉、実績がともなえば、ましてほかより優れて強靭な体躯の持ち主である指導される専門アスリートであれば、モチーブパワー(motive power)としての師弟愛として称賛されることもあるプロ世界だ。

 (5)そういう「世界観」の経験者が指導者として学校教育のスポーツ活動(amateur)に適応工夫もなく、不適切にそのまま「世界観」を取り込むとなると当然のように問題は派生する。
 近年はアマチュア・スポーツ(amateur sports)の指導者からは、強制指導(spartanism)だけではついてこない、今ではアスリートの自立性を導き出す指導の変化を強調する声が多く聞かれる時代だ。

 教育とは、人間の知識、教養、人格形成のプロセスにあるから、情報公開の原則で周囲の注視の中でこそ公平、公正に進められるべき分野だ。「異変」はすぐわかるし、見逃すこと、注視を怠ってはならない。

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