(1)「両耳の聞こえない作曲家」(報道)佐村河内 守さんが18年の「作曲」活動を別の作曲家に代作(ghost writing)させて発表していた問題で、12日に本人が「3年くらい前から言葉が聞き取れる時もあるまで回復していた」と手書きの謝罪文を発表(報道)した。
楽曲を代作していた音楽大学非常勤講師の「最初から聞こえないと一度も感じたことはない」(記者会見趣旨報道)との発言とはまだかなりの開きはあるが、一部ではあるが「両耳が聞こえない」ことを自ら否定してみせた。
(2)今回の代作騒動の発端は佐村河内さんが自ら明らかにしたものではなくて、代作者の情報をスクープしたメディアからの発信であった(週刊誌発売前に本人自ら公表)。
代作者は記者会見で佐村河内さんはピアノ演奏は初歩的段階のものだったと述べている。
佐村河内さんが作曲したとされていた「交響曲第1番 HIROSHIMA」がクラシック曲では異例の15万枚のCD売り上げを記録してメディアから注目を集め、「両耳の聞こえない作曲家」としてその作曲過程(カーテンを閉め切って明りを灯した部屋で机に向かう佐村河内さん)までドラスティック(drastic)にメディアを通して紹介されていた。
(3)楽曲が代作であった上に、そのCDを長年にわたって発売、演奏会に使われて利益(著作権料ほか)、人気を集めていたことから、専門家からは詐欺行為との指摘も出ている。
また一部からは佐村河内さんからの指示書にもとづき別の作曲家が「音(音符)」に起こした作曲過程から、作曲手法としてはありうること(子どもの鼻歌も作曲といえば作曲)とか、誰が作曲しようとその楽曲のすばらしさは変わらない(ソチオリンピックのフィギュア曲に使用予定の高橋大輔さん)との意見もある。
最初から「共作」ということなら問題はなかったという見方もある。
(4)生態学上、最初から両耳が聞こえない人の音感、作曲手法があるのかの理解できない素朴な疑問は残る。
代作問題とはまったく関係のない話だが、あのビートルズ(Beatles)は音符も読めないし、書くことも出来ないと言われていた。
主に詞、曲を書いてきたポール・マッカートニーとジョン・レノンはピアノ、ギターで感じた(考えた)音、音階を共同作業で弾き、それを音源(デモテープ)にとって専門家(当時のレコーディングプロデューサーのジョージ・マーチンか)が音符に起こす作曲手法であったと言われている(現在もイメージを音にしたデモテープによる作曲手法は常識)。
(5)共同作業の作曲であったので、どちらが担当しようとクレジットは詞ジョンレノン、曲ポールマッカートニーが定番と言われていた。マニアには曲想によってこれはポールの曲、これはジョンの曲というのがなんとなく分かっていた。相互に不可侵の信頼関係があったということだ。
幼少の頃からのバンド活動で音符が読めなかったのかは少しドラマ性を誇張した興味本位の感はあるが、専門的な音楽教育を受けたものではないことは知られている。それが斬新で革命的な世紀を代表する音楽を創造させたのだ。
(6)この代作問題が浮上して、メディアではかっての文豪も若い発表機会のない作家の作品に自分の名前をつけて発表させていた周知の事実も紹介し、有名人のゴーストライターの存在は既定の事実だし、何より政治家、首相、閣僚の演説、答弁は官僚の代作であることが常識(営業事業の一種)だ。
その風潮がいいということではない。音、言葉の創造の心証(impression)は信義にもとづく自発性が大前提だ。
佐村河内さんの代作問題は、ハンディ(handicap)を克服した心を打つ感動話が社会的関心、興味を高く呼んでの、その心酔に水を差す心外な裏切り行為であったということだ。佐村河内さんと代作者との信頼関係に、どこかでなにかの亀裂が生じたということだろう。
(7)高橋大輔さんのようにその楽曲に興味、関心を持って楽曲を使用する人があわせてCDを購入した場合もあると考えれば、これを詐欺行為とばかり決めつけるのもどうか。
その代作行為のおぞましさは責められるが、鼻歌も机をたたくリズムも作曲概念と思えば、本人から事実を表明した今は事実は事実として佐村河内さんばかりが責められる問題ではない。
楽曲を代作していた音楽大学非常勤講師の「最初から聞こえないと一度も感じたことはない」(記者会見趣旨報道)との発言とはまだかなりの開きはあるが、一部ではあるが「両耳が聞こえない」ことを自ら否定してみせた。
(2)今回の代作騒動の発端は佐村河内さんが自ら明らかにしたものではなくて、代作者の情報をスクープしたメディアからの発信であった(週刊誌発売前に本人自ら公表)。
代作者は記者会見で佐村河内さんはピアノ演奏は初歩的段階のものだったと述べている。
佐村河内さんが作曲したとされていた「交響曲第1番 HIROSHIMA」がクラシック曲では異例の15万枚のCD売り上げを記録してメディアから注目を集め、「両耳の聞こえない作曲家」としてその作曲過程(カーテンを閉め切って明りを灯した部屋で机に向かう佐村河内さん)までドラスティック(drastic)にメディアを通して紹介されていた。
(3)楽曲が代作であった上に、そのCDを長年にわたって発売、演奏会に使われて利益(著作権料ほか)、人気を集めていたことから、専門家からは詐欺行為との指摘も出ている。
また一部からは佐村河内さんからの指示書にもとづき別の作曲家が「音(音符)」に起こした作曲過程から、作曲手法としてはありうること(子どもの鼻歌も作曲といえば作曲)とか、誰が作曲しようとその楽曲のすばらしさは変わらない(ソチオリンピックのフィギュア曲に使用予定の高橋大輔さん)との意見もある。
最初から「共作」ということなら問題はなかったという見方もある。
(4)生態学上、最初から両耳が聞こえない人の音感、作曲手法があるのかの理解できない素朴な疑問は残る。
代作問題とはまったく関係のない話だが、あのビートルズ(Beatles)は音符も読めないし、書くことも出来ないと言われていた。
主に詞、曲を書いてきたポール・マッカートニーとジョン・レノンはピアノ、ギターで感じた(考えた)音、音階を共同作業で弾き、それを音源(デモテープ)にとって専門家(当時のレコーディングプロデューサーのジョージ・マーチンか)が音符に起こす作曲手法であったと言われている(現在もイメージを音にしたデモテープによる作曲手法は常識)。
(5)共同作業の作曲であったので、どちらが担当しようとクレジットは詞ジョンレノン、曲ポールマッカートニーが定番と言われていた。マニアには曲想によってこれはポールの曲、これはジョンの曲というのがなんとなく分かっていた。相互に不可侵の信頼関係があったということだ。
幼少の頃からのバンド活動で音符が読めなかったのかは少しドラマ性を誇張した興味本位の感はあるが、専門的な音楽教育を受けたものではないことは知られている。それが斬新で革命的な世紀を代表する音楽を創造させたのだ。
(6)この代作問題が浮上して、メディアではかっての文豪も若い発表機会のない作家の作品に自分の名前をつけて発表させていた周知の事実も紹介し、有名人のゴーストライターの存在は既定の事実だし、何より政治家、首相、閣僚の演説、答弁は官僚の代作であることが常識(営業事業の一種)だ。
その風潮がいいということではない。音、言葉の創造の心証(impression)は信義にもとづく自発性が大前提だ。
佐村河内さんの代作問題は、ハンディ(handicap)を克服した心を打つ感動話が社会的関心、興味を高く呼んでの、その心酔に水を差す心外な裏切り行為であったということだ。佐村河内さんと代作者との信頼関係に、どこかでなにかの亀裂が生じたということだろう。
(7)高橋大輔さんのようにその楽曲に興味、関心を持って楽曲を使用する人があわせてCDを購入した場合もあると考えれば、これを詐欺行為とばかり決めつけるのもどうか。
その代作行為のおぞましさは責められるが、鼻歌も机をたたくリズムも作曲概念と思えば、本人から事実を表明した今は事実は事実として佐村河内さんばかりが責められる問題ではない。