(1)97年神戸市で起きた猟奇的な小学生連続殺傷事件から17年を迎える。当時14才だった犯行者はその後医療少年院などで更生生活を送り、社会復帰を果たしている。
被害者(当時11才死亡)の父親(58才)には、今年も当時の加害者から手紙が送られている(報道)という。「(加害者は)昨年に比べて人間として成長しているように思う」(報道)という一方で、「何年たとうとも、親の子どもを思う心が変わることはありません」(同)と被害者の親としての無念の心境を述べている。
(2)当時の加害者は現在31才、社会復帰を果たして「人間として成長している」もないものだが、被害者の親に対して手紙を通してでも「気持ち」を伝える「勇気」は成長の証しでもある。
当時は14才の少年の犯行でありながら、親権者(a person in parental authority)としての「親」がまったく姿を見せずに親の社会的責任のあり方、とり方について大いに疑問を抱いたものだ。
凶悪な少年犯罪の増加で少年法が見直されて少年審判のあり方も今年(4月)改正されたが、親権者としての親の責任のあり方、とり方については大きな進展は見られない。少年事件での当然取るべき親の責任について、保護され回避されることは被害者の親の苦痛に比べてあまりに理不尽でもある。
(3)むしろ少年は加害者であって社会的被害者でもある。その間を取り持つのは親権者としての親の責任だ。
冒頭の神戸少年事件でも、被害者の親は加害者の人間的成長を認めながらも事件の被害者として亡くなった子どもを思う気持ちはいつまでも変わらないとも述べている。
加害者をいくら責めても亡くなった子どもは戻ってはこない非情の現実の中で、司法が被害者の親の心境、心情にどれほど深く応えているのか、寄り添っている(nestle up to parents of a sufferer)のか、厳罰強化だけでは解決しない問題だ。
(4)日本の司法は報復主義(principle of retaliation)をとらないので、加害者に厳罰制裁を加えるだけが司法目的ではなく、犯行責任の重さ、意味、被害者への謝罪、被害者の心境、心情に正面から応えたものでなければならない。
被害者の親からすれば時間がたつにつれて加害者の親の心境、心情も立場が違えばよくわかるようになってくることは考えられる。
ともに少年事件に直接的にかかわってくる親権者の親として共通認識として「考える」こともあるだろう。
(5)少年事件の場合、親権者としての親の立場、責任について秩序社会は明確にすべきことだ。もちろん公にならないからといって、加害者の親の人生に当然の相応のダメージを与えるものではあるが、それでは被害者の親の心境、心情に相応して応えるものとはならない。
少年事件の加害者の親の立場、責任について、親権者としての明確な社会的責任基準が必要だ。そういうものがない限り、被害者の親の心境、心情が癒(いや)されることにはならない。
(6)近年は親子の関係も特別の「血」のつながりが薄れた事件も多く、また親権者としての親の能力、資格に欠ける関係、社会認識もよく目にする社会構造だ。
被害者の親の心情に寄り添っている社会とは思えない。
被害者(当時11才死亡)の父親(58才)には、今年も当時の加害者から手紙が送られている(報道)という。「(加害者は)昨年に比べて人間として成長しているように思う」(報道)という一方で、「何年たとうとも、親の子どもを思う心が変わることはありません」(同)と被害者の親としての無念の心境を述べている。
(2)当時の加害者は現在31才、社会復帰を果たして「人間として成長している」もないものだが、被害者の親に対して手紙を通してでも「気持ち」を伝える「勇気」は成長の証しでもある。
当時は14才の少年の犯行でありながら、親権者(a person in parental authority)としての「親」がまったく姿を見せずに親の社会的責任のあり方、とり方について大いに疑問を抱いたものだ。
凶悪な少年犯罪の増加で少年法が見直されて少年審判のあり方も今年(4月)改正されたが、親権者としての親の責任のあり方、とり方については大きな進展は見られない。少年事件での当然取るべき親の責任について、保護され回避されることは被害者の親の苦痛に比べてあまりに理不尽でもある。
(3)むしろ少年は加害者であって社会的被害者でもある。その間を取り持つのは親権者としての親の責任だ。
冒頭の神戸少年事件でも、被害者の親は加害者の人間的成長を認めながらも事件の被害者として亡くなった子どもを思う気持ちはいつまでも変わらないとも述べている。
加害者をいくら責めても亡くなった子どもは戻ってはこない非情の現実の中で、司法が被害者の親の心境、心情にどれほど深く応えているのか、寄り添っている(nestle up to parents of a sufferer)のか、厳罰強化だけでは解決しない問題だ。
(4)日本の司法は報復主義(principle of retaliation)をとらないので、加害者に厳罰制裁を加えるだけが司法目的ではなく、犯行責任の重さ、意味、被害者への謝罪、被害者の心境、心情に正面から応えたものでなければならない。
被害者の親からすれば時間がたつにつれて加害者の親の心境、心情も立場が違えばよくわかるようになってくることは考えられる。
ともに少年事件に直接的にかかわってくる親権者の親として共通認識として「考える」こともあるだろう。
(5)少年事件の場合、親権者としての親の立場、責任について秩序社会は明確にすべきことだ。もちろん公にならないからといって、加害者の親の人生に当然の相応のダメージを与えるものではあるが、それでは被害者の親の心境、心情に相応して応えるものとはならない。
少年事件の加害者の親の立場、責任について、親権者としての明確な社会的責任基準が必要だ。そういうものがない限り、被害者の親の心境、心情が癒(いや)されることにはならない。
(6)近年は親子の関係も特別の「血」のつながりが薄れた事件も多く、また親権者としての親の能力、資格に欠ける関係、社会認識もよく目にする社会構造だ。
被害者の親の心情に寄り添っている社会とは思えない。