(1)内閣法制局(the legislative bureau)は「法の番人」として政府がつくる法令案への審査(judging)と内閣に対する意見(opinion)を進言する立憲民主主義の法社会正義パラダイム(paradigm)を維持する内閣直属、国の機関だ。
これまでも平和憲法を象徴する第9条の法解釈について個別的自衛権の範囲内で国と国民の利益を守るべきものであり、集団的自衛権は認められないとの統一見解を示してきた。
(2)「法の番人」といわれるように内閣直属でありながら政府、内閣とは一線を画した厳格な法定理論主義のもとに、独自の存在感を示してその判断は国民の信頼も厚いものがあったが、安倍政権での憲法解釈の変更にあたっては政府(安倍首相)の同局長人事の介入から主体性がなくなり、内閣直属組織としての限界を感じさせられることになる。
ところが安倍政権になって安倍首相が「憲法解釈の変更」による集団的自衛権の行使容認を目指して、まずこの理念に近い法制局長官を起用して政府の見解を後押しさせて閣議決定し、安保法制案として国会に提出し衆参両院で採決を強行し9月半ばに成立させた。
(3)安保法制案の国会審議でも法定理論主義の専門的な立場から政府に代わって見解を答弁する横鼻法制局長官は、結局は政府、安倍首相の主張に沿った答弁補足をして、しかもそのため明確には説明しにくい立場もあるのだろう、「青いバラ」、「フグの毒」になぞらえての例え話で煙に巻く政府擁護姿勢答弁に終始して、独自の「法の番人」としての良識、良心の感じられないものになっていた。
(4)最近になって安倍政権の集団的自衛権の行使容認の「憲法解釈の変更」の法的根拠について政府から審査、意見を求められた法制局が、すぐ翌日に「意見なし」とこれを後押しする回答をして、しかし局内でその検討、検証内容、経緯について記録した文書(公文書)を残していなかった(報道)ことが判明した。
内閣直属機関として、また安倍政権の同局長人事介入による私物化で、政府に面と向かって普遍的な法定概念、理論による意見など述べれない、述べる意思のない組織としてのいいのがれ、証拠、根拠隠しのための審査、意見の記録文書作成せずであったのではないのか。
(5)法制局は「(記録文書作成は)今回は必要なかったということ」(報道)と説明しているが、平和憲法の根幹をなす憲法第9条の解釈変更という日本の立憲主義政治(constitutional democracy)の根幹にかかわる重要判断にあたって、政府から審査、意見を求められて説明根拠となる記録文書(evidence)が「必要ない」では法制局の意味も意義も存在感もない「自己否定」でしかない。
(6)同長官の国会答弁での例え話を見るとおり、法制局でありながらまともに法的根拠、理論を説明、解釈する意識などない国会審議軽視があきらかであり、それは結果として国会に議員を送り出す主権者の国民を愚弄(ぐろう)する許されない法制局の態度、対応である。
何のための法制局なのか、法制局のなれの果て(the wreck of the legislative bureau)だ。
これまでも平和憲法を象徴する第9条の法解釈について個別的自衛権の範囲内で国と国民の利益を守るべきものであり、集団的自衛権は認められないとの統一見解を示してきた。
(2)「法の番人」といわれるように内閣直属でありながら政府、内閣とは一線を画した厳格な法定理論主義のもとに、独自の存在感を示してその判断は国民の信頼も厚いものがあったが、安倍政権での憲法解釈の変更にあたっては政府(安倍首相)の同局長人事の介入から主体性がなくなり、内閣直属組織としての限界を感じさせられることになる。
ところが安倍政権になって安倍首相が「憲法解釈の変更」による集団的自衛権の行使容認を目指して、まずこの理念に近い法制局長官を起用して政府の見解を後押しさせて閣議決定し、安保法制案として国会に提出し衆参両院で採決を強行し9月半ばに成立させた。
(3)安保法制案の国会審議でも法定理論主義の専門的な立場から政府に代わって見解を答弁する横鼻法制局長官は、結局は政府、安倍首相の主張に沿った答弁補足をして、しかもそのため明確には説明しにくい立場もあるのだろう、「青いバラ」、「フグの毒」になぞらえての例え話で煙に巻く政府擁護姿勢答弁に終始して、独自の「法の番人」としての良識、良心の感じられないものになっていた。
(4)最近になって安倍政権の集団的自衛権の行使容認の「憲法解釈の変更」の法的根拠について政府から審査、意見を求められた法制局が、すぐ翌日に「意見なし」とこれを後押しする回答をして、しかし局内でその検討、検証内容、経緯について記録した文書(公文書)を残していなかった(報道)ことが判明した。
内閣直属機関として、また安倍政権の同局長人事介入による私物化で、政府に面と向かって普遍的な法定概念、理論による意見など述べれない、述べる意思のない組織としてのいいのがれ、証拠、根拠隠しのための審査、意見の記録文書作成せずであったのではないのか。
(5)法制局は「(記録文書作成は)今回は必要なかったということ」(報道)と説明しているが、平和憲法の根幹をなす憲法第9条の解釈変更という日本の立憲主義政治(constitutional democracy)の根幹にかかわる重要判断にあたって、政府から審査、意見を求められて説明根拠となる記録文書(evidence)が「必要ない」では法制局の意味も意義も存在感もない「自己否定」でしかない。
(6)同長官の国会答弁での例え話を見るとおり、法制局でありながらまともに法的根拠、理論を説明、解釈する意識などない国会審議軽視があきらかであり、それは結果として国会に議員を送り出す主権者の国民を愚弄(ぐろう)する許されない法制局の態度、対応である。
何のための法制局なのか、法制局のなれの果て(the wreck of the legislative bureau)だ。