いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

錯覚に見合った責任。 hallucinatory responsibility

2015-09-30 19:46:44 | 日記
 (1)一日の新聞の社会欄のいたましい事件に並ぶ高3女子(被害者)、高3男子(加害者)、17才女子(被害者)の文字、記事に目が行く。何かがおかしい社会であることは間違いない。教育、家庭、社会が時代の変化に流され、惑わされ、対応できずにおかしくなっているのではないのか。

 高校生といえば一般的にはいわゆる子どもと大人の間にあって、大人への目覚め、あこがれと子どもの未熟さ(経験不足)が同居して、これもいわゆる多感な(sensitive)時代ともいわれる。

 (2)多感な時代は、人間の成長過程でいつの時代にもいつの人間にも訪れるもの、普遍的な現象ではあるが、時代によって取り巻く社会、生活環境の違いがある。
 現代社会は高度な情報化社会を迎えて、若年層からスマートフォン、フェースブックなどの情報機器で膨大であふれるばかりの情報に接して、判断能力、消化能力以上に興味本位ばかりの情報に多感な感性が意味もなく意義もなく流される危険な時代、社会でもある。

 守るべき家庭はまたそれを「進化」したと勘違い、思い違いした大人の勝手な論理で「家にいてもつまらない」家庭環境にして、仮にそれに気がついていてもそれが時流だとして大して気にもしない錯覚による責任放棄社会でもある。

 (3)ほとんどの高校生はその中で青春を自分仕様で自由に満喫しているのだが、そうだからこそ何かの原因でそれから外れた若者は、対極としてまぶしいものに背を向けてトレイル・ロード(trail road-道なき道)に踏み込んでいくのだ。そうだからとこれを2、3の異常性と見過ごすことはできない。

 統計によると昨年深夜徘徊の未成年者42万9943人が補導されたとある。彼ら、彼女らは「家にいてもつまらない」(報道)と言う。
 寝屋川市の中学1年の男女2人が深夜のシャッターの閉まった商店街アーケードを徘徊(防犯カメラ映像)し、そのまま朝まで過ごして犯罪に巻き込まれて帰らぬ人となった。
 普通なら親は必死で心当たりを探して廻るはずだが、商店街アーケード当たりを徘徊していればなおさらに発見の可能性は高かったはずだが、そうはならなかった。

 (4)来年の参院選から選挙投票権が18才に引き下げられて、国会では成人年令の引き下げも検討されている。安保法制案の国会審議では、高校生中心の反対行動、デモも報道された。
 国会強行採決に対する高校生中心の反対行動、デモもそれを取り上げる報道も選挙投票権が18才に引き下げられた背景、影響もあるのではないのか。

 (5)若者の自覚を喚起するのは、「責任(感)」をもっともっと与えることだ。冒頭に高校生を子どもでもない大人でもない間と書いたが、それでも大人としての責任、自覚を与えることが自立につながると考える。

 国会では成人年令の引き下げに飲酒、喫煙習慣への危惧(健康面も含めて)で消極的な意見が多いといわれているが、そうした考え方、理念が高度な情報化社会であふれる情報過多の中で異質に成熟したかのように錯覚する若者を悲劇、トレイル・ロードに追いやっているのだ。

 (6)若者の錯覚に見合った本当の「責任」(hallucinatory responsibility)を与えて自覚を促すことだ。若者の多くがそうであるように、考え、応える能力は十分にある。

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