1985年 (昭和60年) 8月12日、日本航空123便 (ボーイング 747-100型機 JA8119) が、羽田空港を18時に離陸、その12分後から32分間の迷走飛行の末、群馬県多野郡上野村の山中に墜落、搭乗員524名中520名が死亡した
旅客機の単独事故としては、世界でも最大の犠牲者数を出した事故であったが、私にはこの事故が人生の中でも忘れられない想い出となっている
そのニュースを最初、何処で知ったか?
私は隔離された病室のベッドの上で、10インチくらいのソニー・テレビでそのニュースを知った
私は6月過ぎから総合病院で入院療養中であった
4月、会社の定期健康検診で病状が判り、即入院することを余儀なくされた
「入院しなさい」 との宣告は私には ”死” と同じように打ちのめされた冷たい言葉だった
この入院は私だけで止まらず、家族にも大きな負担を掛けることになった
特に妻はそれなりに見えない苦労を一身に引き受けて良く対処してくれたことを想い出すと、今でもそれに対する感謝を忘れたことはない
特効薬のお陰で病状も良くなった頃だったので、このニュースは衝撃的だった
翌日、墜落のニュースが報道される度に私の気持ちは揺れ動いた
”あのジャンボ機が墜落するなんて?” とても信じられないことだった
今日はあの日から30年目、犠牲者のご家族には簡単に時の流れを許せたであろうか?
「あの事故がなければ?」 と、誰もがこの日のことを想い出すと涙するであろう
航空関係者は 「日航ジャンボ機墜落」 の言葉を想い出す度にこの事故から得た教訓を無駄にしてはならない
幸いにも私はその年の11月末に退院した
だが私の人生史の1985年版には 「入院」 と 「ジャンボ機墜落」 の出来事がはっきりと刻まれている
多くの犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げます
合掌
以上の文章は昨年の今日 「あれから29年 (日航ジャンボ機墜落)」 のタイトルで投稿した内容を一部修正したものです
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