日暮らし通信


その日暮らしの生活でも、感謝しています

日頃、見た事・聞いた事・感じた事・そして言いたい事などを発信します

戦時中の想い出

2015年08月15日 14時10分51秒 | 日暮らし通信
日暮らし通信

■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

薔薇の花

空堀川沿いの民家にて
(撮影: H270815)



★ 写真の上でクリックしてご覧ください ★




今日は終戦記念日
この大戦で310万人もの人たちが犠牲になった

何故この戦争が始まったのか? と、歴史好きな私がその謎に挑戦したが、未だにその理由を理解していない

そしてこの日が近付くとテレビや新聞で多くの人たちがその戦争での経験を語って報道されたが、私も興味深く見聞させていただいた

終戦時、私は満5歳。多くは戦時中、戦後の出来事は憶えていないが、幾つかはまだ脳裏に貼りついている出来事もある

昭和18年、中島飛行機武蔵野工場に勤めていた父が病死した
当時、私たち家族はこの工場のすぐ近くに住んでいたが、何れはこの工場が爆撃されることを母は予感して、19年には東村山の実家に一時避難した

出戻りの母はかなりの重圧を感じていたことであろうが、とにかく実家の納屋のような部屋で私たちの生活が始まった

実家は大きな農家で、母屋の前は見渡す限りと表現するような広い農地があったが、当時は家もまばらで視界も開けていた

ある時、大人たちが数人、西方を見て騒いでいた
私もその大人たちの隙間からそちらを見ると、小さな飛行機が急降下しては反転、今度は急上昇して上空へ、そしてまた急降下の飛行を繰り返していたが、それは急降下しながら機銃掃射しているらしかった

大人たちは 「グラマンだ~ グラマンだ~」 と言っていたが、そのグラマンとは米軍飛行機の通称だと教えてもらった

その場所は隣町の軍需工場で米海軍の艦載機がその拠点を攻撃している白昼の出来事だった

私は難しいことは判らなかったが、よく見ていると、それはオモチャの飛行機が飛び回っているようだったが、現地では大変な被害を蒙っていた

遠くから見たこの光景は今もはっきりと憶えているが、この時、機銃掃射を受けた建物の一部は壁に弾痕を受けた跡が今も現存しているらしい

その後、母が予想した通り、武蔵野工場は重点爆撃されて徹底的に破壊されたが
人伝(ひとづて)に私たちが住んでいた住宅も直撃弾を受けたとのことだった

東村山には軍需施設が無かったので直接爆撃は受けなかったが、武蔵野工場を爆撃したB29はその後東村山上空を通過して帰投する

B29は全ての爆弾を投下したはずだったが、中には爆弾槽に引っ掛かって落ちない爆弾もあるので、その爆弾を人為的に落とすとそれが東村山辺りに落下することがあった

ある時、私たちが住んでいる所から六百メートル近くにその役目違いの爆弾が落ちた

私はその時の音を今でも覚えている
 ”サラ、サラっ、サラっ” とあの竹藪で笹の葉を揺すぶるような音がした後、大きな爆発音が聞こえて大地が震えた

その爆弾で民家が直撃され、住民が即死した

その時私たち家族は皆で蒲団を被って静かにしていたが、庭に掘った防空壕は湧水で使い物にならなかったからだった

まだまだ戦時中の想い出は尽きないが、父は34歳で幼子三人を残して逝ったから、戦後は母の苦労が始まった

 「戦争はもう二度と起こさないで」 と、今日改めて平和の有難さを噛み締めながら願い続けることにしよう