諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

龍神に恐怖した日本。目には目を、龍神には龍神を。その2

2015年11月18日 02時49分51秒 | 神道

続きます。

こごチョット脱線します。この新羅の文武王の父親は武烈王と言います。この親子で朝鮮を統一した訳なのですが、日本の武烈天皇と何か関係が有るのでしょうかねぇー。同じ武烈繋がりで。偶然でしょうかねぇー。

武烈天皇と言えば宮城県にある狩野英孝氏の実家の櫻田山神社に祭られています。武烈天皇が亡くなったのが506年。武烈王が生まれたのが602年とされています。接点はないと思いますが、どうして同じ武烈と言う名前なのでしょう。

武烈王は三韓統一の基盤を造った英雄。武烈天皇は色々変態じみた事をした悪い天皇として書かれていますけど、何故武烈なのでしょう。。うーん、分からない。教えて貰いたいです。何か関わりがあるような気がするので。

話を行基に戻します。

日本には蛇神や辰神信仰があった訳ですが、大変罰当たりな事を申し上げれば、蛇よりも龍の方が威厳があります。カッコいいです。それに辰ってどんな姿をしているのか判らない。龍は実在の生物ではなく装飾としてデザインされた姿ですが、大変強そうです。こんなのが朝鮮から日本に襲って来ると考えたら夜も眠れません。そうなるとやはり自分ところも龍神にしちゃおうと思ったのでしょうね。

源平の時代でも源氏は鎌倉の弁才天、平家は厳島神社の弁才天で呪い合戦をした訳です。相手が弁才天ならこっちも弁才天。行基も「龍神が相手ならこちっちも龍神だ」と考え、蛇神・辰神を龍神へ昇華させるのも無理はないのかも知れんです。チョット残念な気はしますが。

行基の時代、龍神に付いて知っていたのは天皇を始めとする上級貴族クラスに限られていたのは間違いないと思います。龍神を導入して雨乞いの儀式をしたのも天皇家関係者に限られていました。

でも天皇家も枝分かれして公家になったり武家になったりで裾野は広がり、一般的な庶民にも知られるようになった。目に見えない辰神よりも姿が示されている龍神の方が信仰しやすい。漠然と自然を信仰するよりも日常の困難を助けて貰いたいとする願いが強くなった。

行基が龍神を広めた事により仏教の信仰も強まる。仏教は日本の国教となり龍神が寺院でも彫刻される様になり更に広まる。

当初は高松塚古墳に描かれた青龍のみだったが、五行思想が加わり黒龍、白龍、赤龍、黄龍に広がります。龍神の勢力は日本中に高まりました。龍神は分かり易かったので。

でも忘れてはならないのは日本には龍は居なかったと言う事です。仏教が国教となったとしても日本の本質は神道です。現に天皇は龍神の力を宿していません。天皇が龍をデサインした着衣を着たこともありません。龍は中国皇帝の紋章??みたいなものです。天皇は中国皇帝とは何の関わりもない。

やはり日本の本質は蛇神であり辰神である。辰年生まれであり日本人の私はそう思うので御座います。

 

ではでは。

 

 

 

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龍神に恐怖した日本。目には目を、龍神には龍神を。その1

2015年11月17日 03時21分53秒 | 神道

以前、「本当に龍は見えるのか」と題して記事を書きました。今回はその付属的意味合いで書きたいと思います。何故、日本に龍神信仰が根付いたかをです。

実は昔、日本は龍神を恐れていた時代がありました。襲ってきたらどうしよう。大ピンチ。物凄く強力な龍神が日本を滅ぼす。何とかせにゃー。

日本はどうしたら良いのか。もうこうなったら破れかぶれです。「このままでは負ける。こうなったらオラホ達も龍神を祀っちゃえ。目には目を、龍神には龍神をだぁー」っとなったのです。これっ、どう言う事だかお分りでしょうか。分からないでしょうねぇー。

今から1400年以上前、新羅に龍神の力を宿していると言われた文武王がいました。この文武王は663年に唐の協力を得て百済・日本連合軍を白村江で撃破。それで百済は滅亡。663年には平壌城を攻めて高句麗も殲滅。最後には協力関係にあった唐の勢力を退け、三韓統一を達成。中国文化を取り入れた統一新羅と言う王朝を開いたとんでもなく凄い男なのです。

この文武王が一番恐れたのは日本です。日本国は手付かずのままでしたから。それで死の間際、文武王は「東海岸から龍になって国を守ってやっから、俺の遺骸は海に葬れ」と遺言。家臣たちは遺言通り文武王の墓を日本海の水中に建設。その海中の墓から新羅の宮古・慶州までの道を「龍の道」として造ったとする伝説があります。

この伝説ですが、嘘だらけの朝鮮半島としては珍しい事に本当でした。

1959年、海岸から2キロの地点にある感恩寺址の発掘で「龍穴遺構」が発見。さらに1967年には文武王の海中陵も見つかっています。海の中に墓があるなんて世界で文武王だけとの事です。凄い執念です。韓国の日本に対する恐れ・妬み等々、すさまじいです。これほど恨みを持っている国と仲良くするのは無理です。日本は朝鮮とは国交断絶した方が良いです。全然困らないし。

話を戻します。日本は百済と協力して戦い新羅に敗北しています。日本側も新羅には恐怖を感じてます。その恐怖の根源が龍神の力を宿した文武王。ここまでする文武王ですから、大変な恐怖と言えます。

当時の日本は天智天皇・天武天皇の時代でした。龍神となった文武王が日本を襲ってくる。どうしたもんだべぇーと恐慌に陥りました。そこであの男が立ち上がります。様々な弾圧にも屈せず時の権力者と戦い、民衆救済をスローガンとして活動したカリスマ僧侶の行基です。

行基は中国・朝鮮に伝わる龍神の力を身に染みて知ってました。幼い頃から大陸仏教を学び、朝鮮半島の脅威を感じていた。その脅威は龍神が宿る強さによるものと考えていたのです。

それに対し日本には龍神に対抗出来る強さの象徴がない。どうすべきか。そして決断した。「目には目を。龍神には龍神を」と。

行基は新羅に宗教面で対抗すべく、日本の地主神である蛇神・辰神に朝鮮の龍神を合体集合させます。これが日本の龍神信仰の始まりです。

 

続く。

 

 

 

 

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道祖神の罪。そしてタテカシマ様と鬼渡神。その5

2015年11月15日 00時00分11秒 | 神道

そろそろ終わろうと思いながら続きます。

話を道祖神に戻します。ここまで書いてきてお分かりだと思いますが、道祖神には村の境界線に建立される石碑タイプと藁人形タイプの二種類があります。

石碑タイプは村に災いが入らない様に建立するためのものだと言うのは間違い無いです。では藁の道祖神はどうなのでしょう。どうして道祖神を燃やしてしまうのか。

「どんと祭」は無病息災を願って正月飾りや門松を燃やします。そして「道祖神祭り」である。つまり藁の道祖神を燃やして無病息災を願う。これは罰当たりを覚悟で申し上げますが、道祖神が災いであり穢れである。道祖神が人々を病気にする側面もあるのではないでしょうか。

鬼渡神は疱瘡神であります。そして仁和多利大権現は子供の神様として信仰を集めている。それは疱瘡神である仁和多利大権現に疱瘡を撒き散らしてもらいたくない為に、子供の神様として祀られていると考えられます。七五三でも判ると思いますが、疱瘡は特に子供の命を奪うものですので。

道祖神も災いの神であり、災いを起こして貰いたくないから災いを防ぐ神として村の境界線に祀る。そして藁の道祖神は災いだから、災いを黄泉の国に持って行って貰う為に燃やすのではないかと私は考えます。

道祖神は国津罪である近親婚の罪を犯しています。その罪の象徴は男女の性器。道祖神の性器こそが国津罪の穢れです。その穢れを燃やしてしまう。燃やして穢れを祓い清める。それが「どんと祭」の本来の意味ではないかと思うのです。

そう考えると新たな問題が発生します。性器は生命の誕生の象徴でもあるという事です。

生命の誕生が穢れとなるのだろうか。そう問われると何とも言えなくなります。どうなのでしょうか。もう苦し紛れの考えですが、道祖神の藁人形を燃やす行為は焼畑農業を示してしているのかも。

焼畑をして灰を養分として新たな五穀豊穣をもたらす。スサノオ尊に殺された大月姫の死体から五穀豊穣の恵みが発生したのと同じ意味合いです。性器タイプの藁の道祖神を燃やして新たな命を願う。どうでしょうねぇー、この考え。

しょうがない。もう一度藁の道祖神を調べました。結果、道祖神を作る藁は人の頭や腹、腰等々、体の悪い箇所にスリスリ擦り付けてから道祖神を造るそうです。そうであるなら体の悪い点、体の災い、つまり病気を持って行って貰う為なのはやっぱり間違いないと思います。

そして死体も穢れです。穢れから新しい命が生まれる。有機農法も穢れから五穀豊穣が生まれる訳です。その考えが道祖神の罪に集合したのではないでしょうか。

私は穢れを持って行って貰う事と、穢れから新たな生命が誕生する事、どちらも正しい様に思います。三貴子もイザナギ尊の穢れから産まれた訳だし。

そうであるなら三貴子の誕生も道祖神ありきの様に思います。これを考えちゃいますと流石に説明は難しいです。瀬織津姫が「水の女」、「禊の女」と言われていた人間の女性とする説同様、記紀を引っくり返しちゃう事になります。これはいくら考えを練っても解答は難しいです。今日はこの辺で終わりたいと思います。

 

ではでは。

 

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道祖神の罪。そしてタテカシマ様と鬼渡神。その4

2015年11月12日 15時03分24秒 | 神道

続きです。

道祖神の男女は兄妹であった。これに付いては猿田彦尊とアマノウズメ尊で説明が付きます。

道祖神は猿田彦尊である事はご存知だと思いますか、妻となったアメノウズメ尊が猿女と言われるのが疑問でした。猿田彦尊の妻だから猿女と呼ばれる様になったとされていたが、それが正しければ全ての神々にも該当する筈。同じ名前になる筈なのです。

しかし、同じ名の神々は国津罪を犯した兄妹で夫婦の神々です。アメノウズメ尊は天照大神に付き従っていた天津神の筈です。それが猿女と呼ばれている。これは変です。

アノウズメ尊は国津神。そして猿田彦尊の妹。天照大神に付き従ったアメノウズメ尊は道をさえぎっり立っていた猿田彦尊に出会った。そして猿田彦尊の道案内で故郷に戻り気が付いた。猿田彦尊が兄である事に。そして自分が国津神である事に。そして猿女である事に。

どうですか、道祖神の言い伝えと猿田彦尊とアメノウズメ尊の話には共通点があると思いませんか。そして猿田彦尊は風神であり太陽神です。私は本来の天照大神は国津神の猿田彦尊だと考えていますが、猿女であるアメノウズメ尊も天岩戸に入る前の天照大神ではないかと思っています。

どう言う事かと言うと宮城県にアメノウズメ尊を主祭神として祀る志波姫神社がありますが、アメノウズメ尊を猿田彦尊としているのです。

私、思うのですがイザナギ尊の目と鼻の穢れから生まれた三貴子は、男女の違いで考えてはいけないと思うのです。

現に天照大神は男神・女神のケースがあります。月読尊も今は男神とされていますが、古くは女神として伝えられていた。そして罪を犯し流離ったスサノオ尊に対し、同じ流離の神・速佐須良姫が存在する。須佐と須良は共通点と言えます。

これはまだ考えが練り上がっていませんが、祓戸四神はアラハバキ神の瀬織津姫、ヤマタノオロチである伊吹戸主、スサノオ尊である速佐須良姫、そして一番難しい月読尊が速秋津姫ではないでしょうか。

本来、月読尊は女神・大月姫。「秋津」は日本列島の意味。日本に五穀豊穣をもたらしたのは大月姫。そんなところから「月読尊=速秋津姫」と考えたりしているのですが、今一つピンと来ませんね。書いている私も。突っ込みどころもいっぱいありますし。

この話は又の機会にしましょうかね。難し過ぎますので。

 

続く。

 

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道祖神の罪。そしてタテカシマ様と鬼渡神。その3

2015年11月11日 10時12分51秒 | 神道

続きます。

どんと祭では円柱系と言うのでしょうか、藁でティピーと呼ばれるネイティブアメリカンのテントの様な形の櫓を造り、その中に門松、注連縄等々の正月飾りを入れて燃やすタイプのものがあります。

っと言う事は私が三和町の田圃で見た藁の家もどんと祭で燃やすのでしょうね。中に正月飾り等々を入れて。

そして藁製の性器の道祖神も燃やしてしまう。何故なのでしょう。藁で作った性器と言えども道祖神です。神様です。それを燃やして良いものなのでしょうか。

それよりも不思議なのは仲の良い男女が抱き合っている風の道祖神と、そのものズバリ、性器の道祖神の2つのタイプがあることです。何故なんでしょ。不思議です。仲の良い男女の石碑方の道祖神なら話は分かるのですが、どうして性器の道祖神を作らなければ成らなかったのか。しかも藁製の性器の道祖神は恐れ多くも燃やしてしまう。これは不思議です。何か秘密がある筈。どう言う事なんでしょ。

ここで一番問題なのは男女の道祖神の関係です。もしや、否、間違いなくそうだ思って調べました。やはりでした。道祖神の仲の良い男女は兄妹。つまり聖婚。国津罪を犯していたのです。

まぁー何となくですが、「そうだろうな。そうじゃないとおかしいな」と思っておりました。そうは思いながらも仲のよい夫婦和合の神様であって欲しいとも思いもありました。ちょっと微妙ですね、これ。

道祖神の物語ですが、「昔々、あるところに大変美しい兄と妹がいた。二人は年頃となり、それぞれ婚活の旅に出た。兄は結構苦労してやっと理想の女性にめぐり合い、二人は結ばれ結婚した。そして嫁を連れて故郷に帰る事となった。故郷に近づくにつれ嫁は怪訝そうな顔をした。そして気がついた。二人は兄と妹だったと言う事に」っと言う結構いい加減でベタベタなストーリーではありますが、兄と妹は知らずに近親婚と言う禁を犯しちゃった。それが夫婦和合タイプの道祖神となります。

実はこれ、結構タブーなのですが、北海道や東北では近年まで結構近親婚が行われていました。

北海道では明治時代に入植した訳です。北海道の人はアイヌ人。アイヌ人とは結婚できない。本土からの入植者も出身はバラバラ。会津人と長州人なんかは大変仲が悪い。だから同じ出身地同士、更にはイトコ同士の結婚が盛んに行われています。現在もそれは珍しいものではないです。

東北のケースはやはり結婚相手が少ないと言う点が上げられますが、特に近親婚が多いのは平家の落ち武者の里においてです。村人に交わる事で平家の落ち武者である事がばれると追っ手がかかる。村人も平家の落ち武者とは関わりたくない。互いに交わるのを拒んだ。だから近親で結婚を続けて来た。それが近年まで続いていたのです。後ろめたい気持ちを持ちながらです。

その様な近親婚の罪を道祖神に背負わせていた。これは私の私感ではありますが、東北に特に道祖神の石碑が多いのはそんな理由があるのではないかと思いますね。

 

続く。

 

 

 

 

 

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