ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「野生の呼び声」 ジャック・ロンドン

2007-07-19 12:06:56 | 
小学校入学のお祝いに、おばあちゃんに買ってもらったのが「フランダースの犬」だった。その年の誕生日に買ってもらったのが、表題の子供版である「名犬バック」だった。これが私の子供の頃の、二大愛読書。

子供の頃はパトラッシュのお話のほうが好きだった。が、ずっと気になっていたのがバックのその後だった。人間の手を離れたバックは、その後幸せだったのだろうか?

私は大の犬好きだ。あの黒いつぶらな瞳に見つめられたら、じっとしてはいられない。犬の魅力は、無条件に寄せてくれる健気な信頼にあると思う。犬が傍らにいる生活は、実に楽しいものだった。きっと犬も楽しかったと思いたい。

でも、私は気がついていた。犬は犬同士で遊んでいるときが、一番楽しそうにみえることを。犬が人間のそばにいるのは、食事を含めて生活が安定するからだと考えていた。

本来あるべき犬の姿を歪めているのは、多分人間のエゴなのだろうとも考えていた。だからこそ、名犬バックの話は、私の心を微妙に揺さぶった。もし生計が立つのであれば、犬は犬だけで暮らすのが幸せなのではないだろうか?

ところが先日、CS放送のディスカバリー・チャンネルで面白い番組をやっていた。人類はアフリカの大地で進化したとされているが、そのアフリカの大地で原住民と暮らす犬たちの暮らしぶりを研究した番組だった。

部落のなかでは人間と犬が共存していたが、そこでは犬はペットではなく、なんとなく昔から部落に居ついている生物として扱われていた。原住民には、犬を飼うという発想はなく、犬を猟に活用する気もない。むしろ犬たちが、人間の周囲に居たがり、残飯を食べたり、近づいてくる危険(豹やライオン)を人に知らせて守ってもらうといった実態が撮られていた。

番組を観ていた私は、猫と人間の関係を想起すらしていた。番組をガイドする動物学者は、犬は人間のそばにいることを自ら選択し、人間に気に入られる行動をとることで、結果的に人と共に繁栄してきたと語っていた。どうやら、犬は私が考える以上に、人間に寄り添う存在であるようだ。

もし今度、犬を飼う機会に恵まれたなら決して手放すまい。名犬バックも、きっと本当は人間のそばにいたかったのだろうと思う。今はそう思うことにしています。
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「GO」 金城一紀

2007-07-18 09:20:48 | 
「在日」という言葉は、なぜか韓国籍と北朝鮮籍の人たちに限定されている感がある。

本当は、在日ブラジル日系人や在日アメリカ人などもいるのだが、不思議と朝鮮半島出身者及びその家族に多用される言い方になっている。

私の在日朝鮮人に対する思いは複雑だ。なにしろ相当に痛い目にあっている。嫌いだと断言したいのだが、そう簡単な問題でもない。子供の頃から、在日の人々が身近に居たため、彼らの置かれている状況の複雑さに思いを寄せずにはいられないからだ。

ご存知だろうか?ヤクザや右翼の相当数は、在日の人たちに占められていることを。安易に危ない人たちだと思わないで欲しい。彼らを裏社会に追いやったのは、閉鎖的な日本の社会構造があってこそだ。どんなに勉強して、いい学校へ行っても、大企業には就職出来ない現実。結婚にだって、相当な差別と偏見が溢れている。だからこそ、在日の人たちは裏社会に流れ勝ちとなる。もちろん、多数の人たちは真面目な市民でありたいと思っている。その場合、大概が自営業者となる。

私がその差別に気づいたのは、教会の活動を通じてだった。素行の悪い子供であった私を心配して、母は私を近所のキリスト教の集まりに連れて行った。転校が多く、孤立しがちだった私はそこで安住の地を得た。月日がたつうちに、私は気がついた。教会というところは、ヤクザや右翼と同様にはぐれ者の行き着く先の一つであることに。

学校で浮いていた私を優しく受け入れてくれた教会の人たちには、意外なほど在日の人たちが多かった。皆、優しく真面目な人たちだった。親しくなるうちに、やがて彼らの抱えている苦悩の一端を知ることとなる。個人では解決できない、複雑に強固に絡まった過去のしがらみが心を縛る。

在日の人たちに、半島へ帰れと指弾する人もいるが、朝鮮半島は日本以上に閉鎖的で排他的な社会だ。現在日本にいる在日朝鮮人たちは、強制連行されて日本に来たのではない。あくまで、自らの意志で日本にやってきた人と、その子孫たちだ。彼らは帰りたくとも帰れない人たちでもある。

日本に帰化すればいいのだろうが、歴史的な経緯と、長年虐げられた被害者意識が歪んだ優越感を育んできたことが災いして、帰化には相当な抵抗感がある。私は帰化した人を何人も知っているが、休日には日の丸を掲げるような日本人らしからぬ愛国者になってしまうことがある。どうも、極端に振れ易い民族性を持っているようだ。

以前書いたとおり、中学生の頃に在日朝鮮人の連中と喧嘩になり、足腰が立たないほど叩きのめされたことがある。痛みに耐えつつ布団のなかで、恨みの呪詛を繰り返した。そんな私でも、彼らから受けた優しい抱擁や、暖かい寛容の気持ちまで忘れることは出来なかった。彼らが抱えている、矛盾と苦悩を無視することは出来なかった。

私は文学というものを、現実と理想の狭間においてこそ光り輝くものだと理解している。だからこそだろう。近年、映画、小説などの文撃フ世界で、在日朝鮮人の人たちの活躍が目立つ。表題の作品も、読後感が爽快な小説で、直木賞を受賞したのも相応だと思う。

長年の朝鮮総連の暴虐ぶりや、在日朝鮮人の犯罪者の非道に怒るのはいい。しかし、その一方で真面目に、善良によき市民であった在日朝鮮人も多数存在している現実を無視はしたくない。嫌な奴もいるだろうが、尊敬すべき、あるいは好意をもてる奴だっていることは、忘れずにいたいものだ。
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「会計チーフはゆ~うつ」 おおはしるい

2007-07-17 14:08:43 | 
人間、生きていれば悩みは尽きない。

悩みにも色々あるが、やはり一番手は人間関係から来るストレスだと思う。私の職場は小さい個人事務所だ。たまにしか来ない所長の他は、私を含めて3人しかいない。狭い職場だけに、人間関係のトラブルがあると逃げ場がない。それだけに職場の雰囲気が良好であることが大切だ。

数年前、スタッフが一人辞めてしまった。原因はいろいろあるが、究極的には人間関係のトラブルだと思う。一見おとなしい人なのだが、芯は強く所長ともしばしば喧嘩していた。そのたびに仲直りしていたが、最後は駄目だったらしい。

結局、久方ぶりに求人広告を出して新スタッフを募集した。小さい事務所だというのに、50人以上の応募があった。優秀な人も少なくなかったが、採用したのは経理の経験はあるが、税務は初心者の中年女性。実は採用の基準は、事務所の雰囲気に合うかどうかだった。ある程度基本(会計)が出来ていれば、税務は教えればいいだけ。高齢の所長と合わせられること、それが第一条件だった。

変に思う方も少なくないと思うが、やはり人間的に合わないとストレスになるし、病身で高齢の所長には穏やかに過ごして欲しいと思うので、私は口を挟まなかった。仕事だけ考えれば、他にも選択肢はあったと思うが、それはまた後でいい。仕事は教えれば良いし、私の片腕の一人として頑張って欲しいので、時には厳しく、時には優しく仕込んでいこうと考えている。

そんな訳で、事務所を仕切っているのは私だが、相変わらず最年少のまま(苦笑)。正直けっこう気をつかうが、みんなに気持ちよく働いて欲しいので、細々とした努力は欠かさないようにしている。まあ、大概がケーキや和菓子だな。後は悩みや不満に耳を傾けること。完璧は無理だけど、私自身働きやすい環境であって欲しいと思うので、なるべく努力を積み重ねたい。

表題の漫画は、10年近く連載が続いた四コマ漫画です。上司を追い出すほどの実力派OLに仕切られた事務所に赴任した新米ペッポコ上司のドタバタ劇でしたが、見事エンディングを迎えました。話題が身近なせいか、毎月楽しみにしていた漫画でした。

最後の巻で、5年後に上司に昇格したOLが振り返って「あの頃は、いつも楽しかった」と口にしていたのが印象的。私もそんな事務所を作っていきたいものです。(仕事は厳しいけどね)
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「フォーチュン・クエスト」 深沢美潮

2007-07-16 12:39:41 | 
多分、気持ちが弱っていなかったら読まなかった本だと思う。

私は本を捨てられない人間だ。だから引っ越していった近所の家が捨てていったゴミのなかに、紐閉じされた文庫本の山があったもんだから、迷うことなく持ち帰った。かねて読みたかった本があったからでもある。

数十冊の文庫本のなかにあったのが、表題の本だった。漫画チックなイラストが豊富なライト・ノベルであり、もし本屋の店頭で見かけたなら無視したかもしれない。

当時は二度目の難病の再発で、6ヶ月ほどの再入院を終えて自宅療養に切り替えていた最中だった。もう二度と治らないのではないかと、本気で思い悩んでいた頃だった。

再起へのやる気も失せ、ただ漠然と息をして、食事を取り、薬を飲み、後は寝るだけの日々だった。投げやりな気分であったので、手にとって読む気になったのは事実だ。

驚いた。面白かった、懐かしかった。TVゲームのドラゴン・クエストが大流行した余波で、雨後の竹の子のように出てきたファンタジー小説なのだが、当時アニメ嫌いであった私は、その漫画チックなイラストが嫌で手を出さなかった分野でもあった。

寝転がり、漠然と読んでいたが、そのほのぼのとした内容に心が和んだ。戦うのが嫌いな戦士に、方向音痴のマッパー、手品みたいな魔法しか使えないエルフの子供や、健気なホワイト・ドラゴンの子供といった冒険者には程遠いメンバーが繰り広げる、冒険未満の冒険が楽しかった。

十代の頃は登山に夢中であったが、いつもパーティを組んで登っていた。常に仲間たちがいて、朝も夜も賑やかに過ごしていた。それが当たり前だと思っていた。

しかし、長引く療養生活は、独りで生きていくことを日常化していた。自覚はなかったが、多分寂しかったのだと思う。だから、初心者ばかりの冒険話にほのぼのとした安らぎを感じたのだと思う。荒んでいた気持ちに、柔らかな日差しを感じるような感慨が気持ちよかった。

作者の出産、育児休業などの中断があり、その間に私は体が回復して社会復帰してからは読んでいなかった。続編も何冊も刊行されているが、未読のままだ。今回の再読も一巻を流し読みしただけで満足してしまった。

原因は分かっている。やはり内容が青少年向けだからだと思う。今の私が読む必要を感じられない内容なのだ。そうだとしても、かつて病み衰えていた私を励ましてくれた本であることは間違いありません。もう読むことはないかもしれませんが、こんな本との出合いでも助けられた事実は、忘れずにいたいと思います。
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ゆとり教育の成果?

2007-07-14 13:31:07 | 社会・政治・一般
最近耳にしている、ちょっと気になる話。

ゆとり教育が、学校の現場で採用されて、ついにその学生たちが社会に巣立ちだした。彼ら新・社会人たちを受け入れた企業や官庁が今困っている。

大事な事なので、予め断っておきますが、全ての新・社会人ではありません。その一部の若者たちだけだと思う。されど、その一部が問題だ。国費を使ってアメリカの大学に留学させたはいいが、語学力はともかくも、基礎学力が不足しているため退学に至ったエリート(のはず)官僚の若者の話が産経新聞に書かれていた。これは氷山の一角なのだろう。

当然、知っていると思っていたことが通じない新・社会人に、先輩社員たちが戸惑っている話は、時折小耳に挟んでいた。困るのは、当の若者たちは自分は悪いと思っていないので、知らないことを反省する気もないように見受けられることだ。ある新人教育担当者は嘆く「学習能力が低いというより、学習意欲が低い」。

やる気はあっても「理解することを優先して、覚えようとしないから、先に進まなない」。なぜかというと、近年学校では教科書を使わず、自製のプリントで時間をかけて授業を行うことが横行しているからだ。別に先生が苦労して作ったプリントを使うことを悪いとは言わない。問題は中身だ。

例えば、ピタゴラスの定理を生徒に、1から考えさせる先生が実在する。その先生に言わせると、1から考えさせることで、生徒の思考力を養うのだと言う。ここで、なるほどなどと安易に共感してはいけない。なぜなら、その授業を受けた生徒の大半は、呆然と時間を浪費する。

当たり前だ。ピタゴラスが長い年月思索と試行を積み重ねて得られた定理を、十代の若者に同じ思考をすることを求めて成果が出るわけ無い。結果的に、そのプリント授業をした後、試験で好成績を挙げるのは、塾などでピタゴラスの定理を暗記して使いこなす勉強をした生徒だけとなる。

もともと暗記重視であった過去の学校教育の反省から、ゆとり教育は生まれたはずだった。ところが実際にやってみると、理解の重視、考える力の柔軟性を求めたはずなのに、結果的には思考力の低い生徒を生み出すばかり。

やはり学習の基本は、暗記と反復練習が基礎になると思う。定理や公式は、アルキメデスやフーコーなどの先人たちが長い間苦労して編み出したもので、その編み出し方は高度な思索の成果であって、生徒が真似すべきものではない。知識は使いこなしてこそ役に立つ。使いこなすには練習を繰り返すことが必要となる。

真似して繰り返すことこそ、勉強の王道なのだと思う。こうして基礎的な学習を積み重ねた後、真の思考力が培われる。これは退屈なやり方でもあるが、一番成果が出やすい方法なのだろう。

人間、誰でも楽をしたがるものだ。ゆとり教育は、その当初の目的とは裏腹に、生徒たちを楽させてしまった。その結果、学力の低い若者たちが続出する羽目に陥った。

はじめに、一部の若者たちだと断りをいれたが、この一部は今後どんどん増えていくと思われる。これからの日本は、少子高齢化に加えて、学力低下にも頭を痛めることになる。あたしゃ、少々気が重くなってきましたゾ。
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