ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ジャッカルの日」 フレデリック・フォーサイス

2007-07-13 09:32:52 | 
上手な嘘には二種類あると思う。

一つは話が大きすぎて、疑いつつも期待を抱いてしまう嘘だ。もう一つは、事実の中に上手に散りばめられた嘘という奴だ。少々語弊がある言い様だが、小説家って奴は嘘つきだ。読者をいかに上手く騙すかが腕の見せ所だと思う。

後者の嘘のつき方があまりに上手くて、世界的大ヒットになったのが表題の作品だ。幾多のマスメディアにより報じられた事実のなかに、虚実を取り混ぜて迫真の物語を書き上げた。まるで自分がテロリストになったような錯覚すら抱かせる、精細で実用的なテロの手法が、物語に真実味を帯びさせる。

映画にもなり、大ヒットしたので御覧になった方も多いと思う。作者フォーサイスは、この作品で一躍人気作家となり、ベストセラーを連発した。冒険小説の世界に「フォーサイス以降」という表現がなされたほど、その影響は大きい。マクリーンやラドラム以上の存在感があったと私は考えている。

ただ、ご存知の方も多かろうと思うが、この人もマクリーン同様駄作が多い。特に晩年の作品は、盛時の面影が覗く程度のものであると私は考えている。それでも、初期の作品は本当に凄い。グイグイと引き込まれて、一気に読んでしまうパワーがあったと思う。既に映画を観た方でも、原作は十分楽しめると思います。
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「ミッドナイト・ミートトレイン」 クライブ・パーカー

2007-07-12 12:56:00 | 
不思議なことだが、ホラー小説は好きなのだが、ホラー映画はそれほど好きなわけではない。

マキャモンは「ホラー小説は、映像には勝てない」とホラー小説を止めてしまったが、私は疑問に思っている。マキャモンの才を惜しむだけでなく、小説という形式による魅力を信じているからだ。

映像の魅力を否定しているわけではない。最新のSFXを駆使した驚愕の映像の魅力は、分かり易く惹きつけられずにはいられない。夢にまで出てくるような浮「映像は、ホラー映画の面白さを世に広めた。

それでもホラー小説の面白さを、断固として支持したい。やはり文章から想起される想像こそ、最も恐ろしくもあり、楽しくもある魅力だと信じているからだ。

ホラー小説好きの私だが、当初から素直に好きとは言い辛いのが、いわゆる「スプラッタ」という奴だった。飛び散る血と臓物は、たしかに恐怖を呼び起こすが、あまりに生々しくて、露骨に過ぎると思っていた。だからスプラッタ映画は、ほとんど観ていない。第一観たら、その後で肉料理を美味しく食べられないではないか。

映像ものが主流だったスプラッタを、小説の世界に持ち込んだのが表題の著者クライブ・パーカーだ。スプラッタのイメージ濃厚な表紙のイラストが嫌で、どうも積極的に読もうと思わなかった。食べ物に関しては好き嫌い無しの私だが、案外読書に関しては食わず嫌いが多い。その典型がハーレクイン・ロマンス系だったり、スプラッタ系だったりする。

ところが、気の迷いというか、たまたま古本屋で5冊百円のバーゲン本のなかに混ざっていたパーカーの本を買ってしまった。表紙がない状態だったので、スプラッタのパーカーだということを失念していたためでもある。

スプラッタを意識せずに、単なるホラーとして読んだパーカーの作品は、食わず嫌いを後悔するほど面白かった。ホラーとしての基本を押さえて、なおかつ現代風の味付けが新鮮だった。うん、やっぱり食わず嫌いは良くないな。でも、読後のお肉料理は遠慮しておきます。
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「ITと呼ばれた子」 デイブ・ペルザー

2007-07-11 14:20:09 | 
下手なホラーより遥かに恐ろしく、おぞましくもある。

母親による児童虐待を、その被害を受けた児童自らが語ったのが表題の作品だ。ここまで人の心は病むものかと驚嘆せざる得ない。酒の影響が語られているが、酒だけではあるまい。一見幸せそうな家族を蝕む母親の豹変は、父親さえも破滅に追い込む。

結局、学校の先生が気がつき、救出されたが、虐待の悪影響はなかなかに抜けず、里親を転々と変え、施設にも送られた著者が立ち直れたのは奇跡にすら思えた。

著者が立ち直れたのは、短い期間ながらも幸せな家庭生活の記憶があったからだと思う。厳しい処罰や躾ではなく、暖かい抱擁と優しい言葉があったからこそ、立ち直れたのだと思う。

私は親からの虐待の記憶はないが、教師から阻害あるいは冷遇の目にあったことはある。どんなに厳しく罰せられようと、酷薄に接しられようと反省なんぞした覚えはない。信頼に値しない大人の言うことなんざ、聞く耳を持たなかった。

ギャンギャン騒ぎたてる先生を上目遣いに見ながら、俯いて反省のポースはとってやったが、内心早く終わらねえかなぁとぼやいたものだ。糞食らえと思っていた。今にして思うと、憎たらしい小学生だったのだろうな。

嫌だったのは、先生だけでなく、私が先生に嫌われていることを知って、虐めにかかる同級生だった。短気だった私は、すぐにぶち切れて喧嘩を始め、ますます先生に嫌われる悪循環だった。ただ、私は家に帰れば、優しい家族が居た。家族という逃げ場があったことは幸いだったのだと思う。

ただ、嫌いな先生の問題は、結局転校するまで解決しなかった。幸運にも転校先の先生は、まともだったので、私はたちまち良い子ちゃんに変身できた。でも、もし転校してなかったら?う~ん、なんかゾッとするな。

表題の著者は、結局里親のもとで更正することが出来た。児童虐待は、おそらくは戦争同様完全に無くすことの出来ない人類の醜悪な一面なのだと思う。無くすことは出来ないが、助けることは出来ると思う。里親制度、ソーシャルワーカー、奨学金などの社会制度的対応で、ある程度は解決出来ると期待したい。

大人が助けなかったら、子供だけでは解決できない問題だと思う。
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「飽食日本」 陸拍t

2007-07-10 17:45:33 | 
6年ほど前に冷蔵庫を買い換えた。

長年使っていた冷蔵庫は、私が小学生の頃から家にあったもので、最新型に比べれば音も大きいし、電気も食ったと思う。故障して、冷えなくなったので、止む無く買い換えた。

近所の電器屋さんで買い入れたが、いろいろ商品を見て周り驚いたのが、冷凍室が昔より大きくなっていることだった。冷凍食品と電子レンジの普及を考えれば当然のことなのだろう。

ところが困ったことに、私は電子レンジを持っていない。冷凍食品もほとんど買わない。冷凍室に入っているのは、アイスノンと製氷ケースぐらいで、夏場にアイスクリームが置かれるのが関の山だ。

実は電子レンジが嫌いだ。どうも手抜きの感が否めず、臭いが気になるからだ。今の製品は臭いは大丈夫らしいが、やっぱり手抜き料理の印象は否めない。便利だと思うが、世の中多少不便なほうが頭を使うし、身体も使う。このあたりの頑固さは、おばあちゃん仕込みだ。

とはいえ、どの冷蔵庫も冷凍室は大きなスペースをとっていて選択の余地がない。一人暮らしに大型冷蔵庫を買うわけにもいかず、やむなく小型冷蔵庫で我慢した。

当初は不満だらけだった。なにせ野菜室が小さい。スイカはおろか、南瓜さえ切らないと入らない。大瓶の調味料も入らない。以前と同じ感覚でいると、あっという間に冷蔵庫は満杯になってしまった。こりゃマズイ。

致し方なく、こまめに買い物をすることで、冷蔵庫と折り合いを付けた。結果オーライというか、無駄な買い物が減ったのは確かだ。冷蔵庫の奥でミイラ化する野菜が、ほとんど無くなった。無駄なものを置く余裕がないのが良かったらしい。

ところで表題の本は、日本に留学した台湾の人が、日本の食糧事情に驚き呆れ、自ら調べ上げて書いたものだ。食料が溢れることに疑問を持たない普通の日本人には、耳が痛い話ばかりだ。豊かさとは、無駄にあふれることなのかと思わざる得ない。

最近は「もったいない」が流行り言葉のようだが、妙な話だ。私なんざ、おばあちゃんから耳にたこができるほど聞かされた言葉だ。高度成長以前の日本人には、当然すぎる言葉だったと思う。

再読した後、なんか悔しくなってきたので一言反論。文化は無駄から生まれるもんだい!
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「拳闘暗黒伝セスタス」 技来静也

2007-07-09 21:05:57 | 
最後に殴り合いの喧嘩をしたのは何時だろう?

気心の知れた友人と、酔った勢いで叩き合ったぐらいなら最近もある。でも、あれはじゃれ合ったようなものだ。

繁華街で、気の短そうな若いのに絡まれたことならある。でも、ほとんどナアナアで済ませて、殴り合いには持ち込まない。

不良債権がらみや、倒産企業とのかかわりで、危ない連中と対峙したことはある。これも肩書きとバックの人脈で乗り切れた。

つい最近も、妙な連中に絡まれたが、さっさと退散して事なきを得た。

うわ!二十歳過ぎてからは、本気の殴り合いはまったくしてない。娑婆いもんだ。いや、別に殴り合いたい訳ではない。ただ、ちょっぴり不安になった。先日絡まれた時も、相手は初老で、はなから殴り合いにならないことは予見できた。しかし、相手は気の短いチンピラだったら、どうだろうか。俺、殴り合えるかな?

もう、拳も柔らかいもんだ。経験がある人は分かると思うが、人間の手という奴は小さい骨が集まって出来ている。だからこそ、繊細な作業が出来るが、反面頑丈さには欠ける。素人が人の顔面を素手で本気で叩けば、数発で拳を傷める。しっかり拳を握り、手首を固めないと、殴ることさえ出来ないのが実情だ。

中学生の頃、手ぬぐいを被せたコンクリの壁に、何度も何度も拳を叩きつけ、一生懸命拳を固めたものだ。はじめのうちは痛くて痛くて、一分ともたなかった。拳頭の皮膚が厚くなるにつれ、痛みに馴れて、拳も堅くなってきた。それでも、殴るフォームがよくないせいで、小指や薬指を痛めたものだった。よく素人打ちだとからかわれたものだ。

でも、一番大切なのは拳の堅さではなくて、気合の入れ方だった。喧嘩は気迫で決まる。いくら技術があっても、力が強くても、気の弱い奴は駄目だ。実際問題、喧嘩に強い奴は、殴りあう前に気合勝ちしていることが多い。

大人になって、狡賢くなった私は喧嘩を避ける術を身に着けてしまっている。怒りの矛先をずらしたり、逃げ口を予め設けたりして、巧妙に立ち回るようになってしまった。もう殴り合う覚悟を失していると判じざる得ない。

白状すると、情けないと卑下の感情が生じざる得ない。その反動かもしれないが、格闘技への関心は以前より増している。表題のマンガは、隔週発売のヤング・アニマルという雑誌で連載されている、ローマ帝国の奴隷の拳闘士の少年を主人公にしたものだ。

奴隷制の歴史は古い。おそらくは都市国家成立以前から存在した制度だと思う。古代ローマ帝国での拳闘を取り上げたものだけに、現代のボクシングとは本質的に異なる。時々連載を中断するのも、歴史的考証に時間を充てているようだ。ローマ時代の娯楽であった拳闘をよく描いていると思う。

生き残るための拳闘、いつか自由を夢見る拳闘。主人公が繊細な少年であるがゆえに悲劇的展開が見えてしまうが、それでも話の続きを読まずにはいられない。じっくり読み続けたいと考えています。
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