ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

北島選手の引退

2016-04-14 16:31:00 | スポーツ

水泳の北島選手が引退をした。

この十数年、日本の競泳界を牽引してきた功労者であり、競泳予選での敗退を受けての引退であった。勝って清々しく、負けて潔い選手であったと思う。

その一方で、その北島選手を追い抜いていった若手選手が幾人もいることに頼もしく思う。日本の競泳選手の層の厚さは、相当なものだ。

実を云えば、日本は世界屈指のプール大国でもある。特に小学校でのプール施設の充実は、世界屈指だといっていい。これは水資源に恵まれていることや、国公立学校の施設が充実していることに加えて、大半の体育教師が水泳の指導が出来ることも大きい。

もっとも、北海道など寒冷の厳しい地域では、水を抜いても施設が凍結して、破損してしまうため、プールは諦め、その代りにスケートやスキーを体育に取り入れている。

また水泳指導も、けっこう地域差があるようだ。東京育ちの私は小学生の時、水泳の習得は必修だと思い込んでいた。しかし、大学に入り地方の学生から、けっこう泳げない人もいると聞き、驚いたほどである。

だが、それでも世界的にみれば水泳指導と、公立学校等でのプール施設の充実度はかなりのものである。だからこそ、北島選手を引退に追いやるような、生きのイイ若手が次々と輩出されるのであろう。

また結果的に高齢者であっても泳げる人が多く、膝が痛んで歩くのは辛くても、プールでのウォーキングなら運動が可能である。多分、世界的にみても、泳げる国民の比率は、相当に高い方だと思う。

地味ではあるが、世界に誇るべき福利厚生政策だと考えるべきだと思う。水泳は一度覚えれば、年をとっても忘れないものだ。医者に通う回数を増やすよりも、プールなどに通って健康を維持することも大切だと思うようになりました。

引退を決めた北島選手ですが、きっと指導者として復活するでしょう。長いこと選手として活躍してきたわけですから、ここはじっくりと静養して、次なるステップを刻んで欲しいものです。

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裏賭博とバトミントン選手

2016-04-13 11:56:00 | 社会・政治・一般

賭博で儲けたいのなら親になることだ。

そう、教えてくれたのは、東京は某所での鉄火場を仕切っていた代貸しと呼ばれていた男性であった。当時、小学生であった私は、この代貸しという呼称を姓名だと勘違いしていた。

秋祭りの神輿担ぎの時に、一番目立つ場所で活躍する人であり、私らガキんちょの憧れの人でもあった。わりと子供好きの人で、他の恐ろしげな大人たちとは違っていたのも、親しみを感じる理由であった。

この人とは、近所の銭湯でよく遇っていた。その広い背中に登り竜の入れ墨が、湯上りでほてった体に浮かび上がる様が綺麗であった。私らガキんちょは、時々この人の背中を流してあげて、あとでジュースを奢ってもらっていた。

当時、銭湯で風呂上りに、その広い脱衣場の角で、子供同士で賭けトランプなどをやることがあった。もっとも賭けていたのは、ベーゴマだったり、野球カードであったりと子供らしいものであったので、周囲の大人も黙認していた。

私は賭け事には、あまり強くない。どうも引きが弱いというか、賭博の才能に欠けているように思う。ただ、けっこうな負けず嫌いなので、むきになり、熱くなって、のめり込むこともあった。

手持ちのカードを全て失くして呆然としている私に、代貸しのおじさんが声をかけてくれ、教えてくれたのが冒頭の科白であった。当時は、ほとんどその意味を理解できていなかったが、今ならかなり分かる。

賭博とは、親が儲かるように仕組まれている。そのように仕組まなければ、賭博は成立しないものだ。つまり賭ける側の子は、必ず損をする仕組みになっている。つまり、賭けを受ける親は、必ず設ける。そうでなければ、誰が親をやろうと思うものか。

だが、親が一方的に設けるだけでは、賭場が廃れてしまう。子にもある程度、儲けさせて場を盛り上げる必要がある。サクラを仕込む場合もあるが、親の采配次第で、子に儲けさせ、熱くさせて冷静な判断力を奪うほうがリスクは少ない。

賭場を栄えさせるには、その場が盛り上がることが必要となる。その盛り上げに一役買うのが有名人である。TVのCMなどで、よく有名人が起用されるのも、その一環である。

日本における公認された賭場は、競馬、競輪、競艇などの他、パチンコ、スロットなどがあるが、いずれも必ず親が儲かり、その儲けから政府が税収を得る仕組みとなっている。

つまり親の儲けであるテラ銭が高い。だから、子はあまり儲からない仕組みとなっている。それは子が負け過ぎないようにする仕組みであると宣伝しているが、それは大嘘である。公営賭博であろうと、自己破産するほどのめり込む博打中毒の賭け子は絶えることない。

そこで、政府の取り分を抜きにすれば、親も子も、より儲かるようになると考えて行われるのが私設賭博である。もちろん違法であるからして、政府はその取締にやっきとなる。古今東西、いかなる国家も税収を横取りされるかのような不法行為は、絶対に許さない。

それだけリスクが高いのが私設賭博である。その危険を承知でやるのだから、開設者は必死になって儲けようとする。違法であろうと、賭場を運営する側では、盛り上げるために有名人を客にしたがる。特にあぶく銭をもっている客筋が好まれる。ある程度儲けさせて、冷静さを失わせて、のめり込ませる。その手口こそが、プロの手法であるからして、素人は簡単にひっかかる。

今回、違法賭博にのめり込んで、リオ五輪の出場資格を失ったバトミントン選手などは、その典型であろう。この一件で、スポーツ選手としての未来を失ったのだから、可愛そうに思う人もいるだろう。でも、自業自得であるし、おそらく公営賭博であってものめり込むだろうと思う。

賭博は人を熱くさせる。これは古今東西変わることのない事実である。私は自分には賭博の才は乏しいと、経験的に実感しているので、のめり込むことはない。

でも、その結論に至るまで、相当な損失を被っているのも事実だ。あまり金がない十代の頃であったので、失ったのは時間であった。本来なら、勉学に勤しむべき時間の大半を、パチンコに浪費してしまった。

ある事件から、パチンコ業界の嫌な面を見せつけられたおかげで、冷静さを取り戻りせた。おかげで、賭博から足を洗うことが出来たが、失ったものも大きいと思っている。

今は、一切博打ごとからは遠ざかっている。でも、内心少し怯えているし、警戒もしている。再び、賭博にのめり込んだら、再起するのは難しいだろう。それほどまでに、賭博は人を変えてしまうものだ。

今回、処罰されたバトミントンの選手たちは、果たして再起できるだろうか。相当に辛く厳しいことになると思うが、なんとか踏ん張って欲しいものです。

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僕だけがいない街

2016-04-12 11:59:00 | 映画

やっと日の目を浴びたのが嬉しい。

私がこの十数年、ずっと注目していた漫画家の一人に、三部けいがいる。画力は確かだし、ストーリーだって悪くない。登場人物にある種の共通性が見られる傾向はあったが、キャラとして立っていた。もっと人気が出て良い漫画家だと思っていた。

ただ、掲載している雑誌がマイナーであったために、よほどの漫画好きでない限り、知られていない漫画家であった。青年誌への連載であったため、お色気サービス的絵柄がはめ込まれていたのも、もしかしたらマイナス要因であったのかもしれない。

一貫して、児童虐待や不遇な少年少女たちを描いている姿勢にも、大々的に売り出しにくい要因になっていたのかもしれない。でも、私は好感をもっていた。最後にハッピーエンドをもってくる姿勢も高く評価していた。

だから、ここ最近、次第に注目を集めていたことは、とても嬉しかった。そして、遂にアニメ化された。放送枠が深夜であるため、私は観ていないが、これで評判が一気に高まった。

そして、今回の映画化である。

はじめに書いておくと、エンディングは原作とは少し違う。その点が原作のファンとしては、ちょっと辛いが、概ね原作に近いストーリーと流れであり、これはこれで評価したい。

原作を読んでいなくても、この映画で十分に楽しめる。三部けいの漫画を知らない人でも、その独特の絵柄と個性はわかるはずだ。是非とも鑑賞していただきたい作品です。

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報道ステーション 古館氏の退任

2016-04-11 13:39:00 | 社会・政治・一般

報道に完全な自由はあるのか。

あまりTVを観ない私だが、この番組の最後は観てしまった。ご存じのとおり、久米宏の後を受けて始まったこの番組だが、TV朝日というか朝日新聞の伝統なのか、反日自虐が目立つ番組であった。

久米宏の、おちょくりトークも面白かったが、古館のマシンガン・トークも、そう悪いものではなかった。少なくても、朝日の反自民政権姿勢を好きな人には、そこそこ支持されていたと思う。

ただ、久米のおちょくりは、所詮表面的なものに過ぎなかった。唯一、私が評価しているのは、中曽根・元首相が報道されたくなかったことを報道してしまったあの事件ぐらいだ。

また、プロレス中継では絶好調であった古館のマシンガン・トークも中味のないスカスカ弾ばかりで、迫力には欠けていた。それでも、自民党筋からは相当に嫌われていたようで、解説者の降板事件やら、なんやらで番組の中味とは無関係の部分がよく話題になっていた。

古館の降板も、あくまで自身の意思であり、外部からの圧力によるものではないと、最後に延々と語っていた。しかし、あれだけ執拗に自身の意思だ、圧力はなかったと繰り返すあたり、語るに落ちるとしか言いようがない。

あの最後の語りを観ていた視聴者は、誰しもTV朝日になんらかの圧力があったものだと信じてしまうだろう。それが自民党筋なのか、あるいはスャ塔Tー筋なのかは分からない。

分からないまでも、古館が盛んに「不自由だった」と嘆くことから、視聴者は報道ステーションという番組に、なんらかの圧力があったのだと納得してしまっただろう。それが狙いのように、私には思えた。

だが、敢えて言いたい。TVやラジオのような許認可放送事業に於いて、真の自由なんてあるわけない。あくまで政府の認可あっての放送事業である。その認可を得るために、朝日新聞社を始めとして多くのマスコミが多額の資金を投じている。

地方に開設される新しいラジオ局やTV局の認可を得るために、関係会社に郵政省のOBを顧問に迎えたり、現職官僚を招いての勉強会、その後の豪勢な食事、手土産を支払ったのはどこのどいつだ?

これが公共事業の認可のためにゼネコンが同じことをやれば、新聞、TVは当然のように贈収賄だと大騒ぎする。しかし、電波の割り当てや、新しいTV局の開設のために同じことをやっても、新聞TVは絶対に報じない。

報じたのは、一部の週刊誌だけである。そして、どんなに騒ぎになっても、大手マスコミ様は、それを取り上げたことがない。

それでも、ぬけぬけと古館は「不自由だった」と嘆く。まるでTVが自由に放送していることを前提にしているようだった。自分たちが報道されたくないことを報道されない自由は当然のものと考える。

その一方で、自分たちが自由に報道したい反自民、反日本的な報道に対する批判は、圧力があったと騒ぎ立てる。報道ステーションを退任する最後の放送での、古館の発言は、あまりに傲慢で、自分勝手に過ぎると思います。

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ジャパッシュ 望月三起也

2016-04-08 11:46:00 | 

ワイルド7で知られた漫画家、望月三起也氏が亡くなりました。

数年前に拙ブログでも取り上げたワイルド7があまりに突出して大ヒットしたので、他の作品が知られていないのが残念です。そこで、今回取り上げたのが、変わり種中の変わり種、それが表題の作品です。

古代マヤ文明の予言書に記載された人類史上に名を残す大虐殺者たちのリスト。アレキサンダー大王、チンギス・ハンら古代の虐殺者のリストのなかで、ヒットラーの次に記載されていた名が「ジャパッシュ」。その生誕の日は予言されていたが、いったいどこで生まれるのかは不明。

その数十年後、美しい容姿と、悪魔のような智謀により、日本において非政府系の警察組織を立ち上げた若者・日向光こそが、このマヤの予言書に記された次なる大虐殺者であった。

生まれたとき、その愛くるしい外見とは裏腹に、禍々しい気配に気づいた助産婦が、密かに死なそうとするが、電気コードをいじくり感電死させて生き延びた悪魔の赤子。まるでダミアンを彷彿させる邪悪さ。もちろん、映画オーメンよりも、ジャパッシュの方が先に発表されています。

マヤの予言書を解読して世間に発表したものの、相手にされずなかった考古学者の孫は、偶然同級生であった日向光のことを知りますが、祖父共々火災に見舞われる。孫はかろうじて生き延びたものの、顔に醜いやけど跡が残り、以降復讐の鬼と化す。いわば、裏の主人公となります。

着々と権力と富をものにして、政治の表舞台に飛び出そうとする日向光と、彼を倒そうとするかつての同級生。この二人を中心に物語は進みますが、なぜかいきなりの意外な結末で幕を閉じます。

実は、作者である望月三起也氏が、自らの意思で急遽、無理やり終わらせてしまったのです。この連載は週刊少年ジャンプであり、子供たちが読む漫画である以上、残虐な悪役が主役であり続けるものを描き続けることに危惧を覚えて、良心の呵責に耐えかねての連載終了でした。

私は当時、この漫画をリアルで読んでいましたから、急な連載完結に納得しかねていたのです。人気のない作品の打ち切りならまだしも、この漫画はあまりに残虐、冷酷であり過ぎる主人公の魅力もあり、けっこう人気があったのです。

作者の意図としては、二人の主人公であったようですが、実際には日向光の悪の魅力が際立ちすぎていて、復讐者である考古学者の孫は引き立て役となっていた。作者の意図を越えて、輝きだした主人公に、作者自身が恐れおののいたのでしょうか。

たしか単行本の最終巻に、後書きとして顛末が書かれていたと記憶しています。すごく残念な気持ちになったことは、今も覚えているのです。もし、連載が子供向けの週刊誌でなかったら、物語は違う結末であった可能性がありました。

また、あの時代(1970年代)には、悪役が主人公であるような漫画を受け付けない風潮があったのかもしれません。今ならアンチ・ヒーローものとして、あるいはアンチ・テーゼものとして受け入れられると思うのです。

だから、いつか望月氏にジャパッシュの描き直しをして欲しかった。でも、残念ながら、それは適わぬ夢と化しました。仕方ありません。謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。

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