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この電信柱は確かに興覚めだと思うが、入れないようにした写真はてすでに何度も撮っている。降雪の翌朝がこんな感じだったと伝われば、それで充分、有難い。懐かしいと思ってくれる人もいるだろう。
きょうの天気は良くないようだが、明日から回復して、週末の土曜日はまた崩れるらしい。それでも、今冬は乾燥した陽気が続いた。しんしんと振る雪を目にした記憶は前回、10日ばかり前の入笠ぐらいしかない。この純白の雪も今はどうなっていることか。猟期も終わり山は静かになっただろうから、明日あたりまた上に行ってみようかと考えている。この呟きに使う写真も切れたことだし。
ここにいても上にいても、格別暮らし方に大きな変化はない。取水場まで水汲みに行かなければならないから、炊事の手間と、風呂に入れないことは厄介だが、それ以外ではあまり変わらない。強いて挙げればもう一つ、上では酒量が増えることぐらいだろう。
あんな山の中に一人でいて寂しくないのかと聞かれることもあるが、それは全くない。上でも下でも一人、変わらない。下にいれば、暇つぶしと気分転換で一日に複数回入る風呂だって、しようと思えば我慢できる。唯一それができないのが、食い物である。下にいても、およそ外食などしない。高価な食材などにも関心がない。肉類もほとんど口にしない。ただし、自分で旨いと思う物、食べたい物を食べるという欲求の前には弱い、脆い。大袈裟に言えば、戦後間もないガード下にいた欠食児童のようにあさましくなる。何を食べるかを考えるだけでも一日が過ぎ、死ぬまでこれが続くかと思うとやりきれなくなる。これではHAL(犬)と変わらない。
思うことあってひと頃、菜食主義者を気取ったことがある。極寒のアラスカの荒野で、40日も一人で過ごした星野道夫の凄さには先日も触れた。前穂の右岩稜での夜、晩秋の雨に濡れながら食べた一粒のピーナッツ、レーズンの尊さは、ポケットビンの底に残った数滴のウイスキーにも匹敵したことを忘れてはいない。それよりなにより、世界にはまだ飢えから解放されない人たちがいる。「塩は最高の食材だ」などと、鹿のようなことを言うのはもう止めなければ。
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