入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’19年「冬」 (52)

2019年02月23日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日、中川村の陣馬形付近を通る林道を、迷いまよいして下っていったら、もう梅の花の咲いている暖かな野に出た。道中、西駒から空木、仙崖嶺と続く中アの眺めにも圧倒され続けた。
 
 それにしても四徳、伝説が正しければだが、平家の落人らが誰に手引されたのか、よくぞこんな場所に隠れ住んだものと改めて感心した。それほどの山の中である。北から南に向かって流れる四徳川が削った細長く、全く狭隘な谷間だ。中川村の他の地域からも遠く、隔絶していて、人の目に触れずに暮らすにはこれ以上の場所もなかっただろう。そこを、1961年の大雨による大災害が発生し、700年以上もの長きにわたって存続してきた集落が壊滅してしまった。今はキャンプ場が2か所にあるが、人家は全く残っていない。入笠の伊那側にある芝平の集落も、この同じ災害により集団離村を余儀なくされたのだが、まだ古い家々が残っている。しかし四徳には、人の暮らした形跡が殆ど何もない。人の手が入った平地の跡と、所々で見掛けた石柱や墓石ぐらいだ。
「わたしたちは故郷四徳を忘れない」と、集落の沿革を記した学校跡地の案内板にあったが、子や孫の代になればそれも恐らくかなうまいと、その決意を却って痛ましく感じながら読んだ。そして、正直言ってご先祖さまが、しがない民草であったことを喜び、ここが故郷ではなかったことに安堵した。こういう辺境に関心を持つことと、当事者になるのとは違うのだと思い知った。
 四徳を訪れたのは初めてではない。確か三度目だと思う。昨春も花のころに訪ねている。前回もその前の時も、何か見落とした物があるような気がしていた。あまりにも生活の痕跡が消えてしまっていたから、もう少しそういう集落の歴史、形見のような物を見付け、触れてみたかった。それに確かこの地にも、北条時行伝説があるようだし、下って幕末から明治、漂泊の俳人井月も伊那や駒ケ根、あるいは近隣の家々への往還によく使っていたらしい。


   福泉寺歴代の住職の墓
 
 手向けの花さえ久しく絶えてしまった墓所や墓石に、かろうじて往時のよすがを感じて帰ってきた。

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