入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’20年「夏」(47)

2020年07月25日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 よく降る雨だ。まるで緑の水の中に浸けられているような気がする。この執拗に、容赦なく降り続く雨、各地で被害を受けた人々は持ってゆきようのない怒りを必死で抑えて、耐えるしかないのか。その一方、政府の面妖奇策に乗せられ、全国へ散らばった遊子たちはこの悪天の下、望むような旅をできたならいいが、新型コロナウイルスを撒き散らすだけの結果に終わったなら、・・・後世の語り種になる。
 
 雨の音に混じって鳥の声がしていたが、それも止んだ。上には来てみたものの、さすがに動きがとれないとはまさしくきょうのような天気だ。小降りになったら、牛の様子を見にいくつもりでいるが、それもいつのことになるのやら。
 と、そんなことを呟いていたら、少しだが雨脚が弱まってきた。今だとばかり急いで支度をして、雨の中に飛び出した。何としても頭数確認だけは終えておかないと気が落ち着かない。

 今、ずぶ濡れになった身体を乾かし、熱いウイスキーコーヒーを飲んでいる。そうでもしないことにはcovid-19を疑われるような風邪をひきそうで、もしそんなことになればいい歳をしてと嗤われる。外は、また雨が狂ったように激しく降ってきた。
 ずぶ濡れの原因は、雨具。そしてもう一つは5頭の牛の確認ができなかったからだ。雨具に関して言えば、決して安物ではないが、かなり古い。他にも2着あるが、いまだに着慣れたこの雨具を使うことが多く、日ごろ山用品の中では雨具の大切さを強調している者として、感心しない。
 牛に関しては、きょうは確認にかなり手間をかけた。三角形の左の斜線に沿うように登りながら電牧と牧草の状態を点検していき、小入笠の頭に着くまで牛の姿はなかった。今度は右の斜線に沿うように下り、底辺近くまで降りてやっと9頭を確認。そのまま横に移動を続けほぼ中間点まで来て、かなり上部にホルスを見付ける。ようやく耳標で6頭を確認し終えたと思ったら、さらにその上の方に和牛が見えた。3頭だった。三角形の中心を登り直したことになる。まだ10頭未確認のため斜めに降りてきて林の近くで和牛5頭を確認できたが、すでに底辺に近かった。
 その後、今度は底辺を逆に沿って歩き、最後にもう一度囲い罠から続く右の縦線にも行ってみたが駄目だった。下で台帳と照らし合わせたら、未確認はホルス3頭と和牛2頭だった。

 さてどうするかだが、とりあえずきょうの独り言はここまでにすることに。Ebinademaruさん、Mさん、応援ありがたく頂いてます。また明日。


 

 

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     ’20年「夏」(46)

2020年07月24日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日は午後になってから北原新道へ行った。刈り取った草、クマササが主だが、の片付けをしたがまだ全部は終わっていない。きょうは午前中ぐらいなら天気は持ちそうだ。TDS君の判断に任せ、中止なら北原新道の昨日の続きをするし、予定通りならテイ沢の草刈りをする。テイ沢も上り口から最初の丸太橋までは済んでいるから、通行にはそれほど問題はないはずだ。

 結局、予定通りTDS君と二人で、テイ沢の草刈りをした。沢が始まるヒルデエラ(大阿原)まで行き、そこから適当な間隔を開けて下流に向かい刈り始めることにした。ところが、新品に替えたばかりの歯の切れが良くない。この歯はTDS君から進呈されたもので、交換も彼にして貰ったから、まさにおんぶに抱っこで、さすがに調子がおかしいとは言い出しにくかった。
 しばらくやってみたがどうにも合点がいかず、ついにそのことを彼に訴えた。新しい歯の径を一回り小さくしたことがよくなかったかと思ったがそうではなく、原因は彼の折角の厚意と名誉を思い、口を閉じておきたい。
 さあ、それからは、まさしく日本刀と言ってもよいほど、切れるきれる。肩の力が一挙に抜け、作業は進む、快調。そうなれば、草刈りは技術も絡み面白くもなる。その中でも、岩や石の障害物ギリギリまで歯を寄せるのはかなり高度な技だと言えるだろう。
 天気は午前中まで持てば上々だと、雨具も用意しておいたが、二人の草刈り機の燃料が切れるころには、予定していた範囲を終えることができた。後片付けは少し先になる。
 
 途中、子供を中心にした団体が降りてきた。人生を考えながら草を刈っていたTDS君によれば25名いたという。その中のかなり年配の引率者らしきに見覚えがあり、先方もそのようだったがすぐには思い出せなかった。みんな気持ちよく挨拶してくれたが彼だけは先を急かせ、不快そうに通り過ぎていった。
 あれは去年のことだったか、毎年のことながらテイ沢が大雨のために大荒れした。その時も彼はきょうと同じく何人もの子供を連れていたから、危険だとつい言ってしまったことがあった。その時の先方は、子供らには充分な指導、訓練をしてあるから案ずるには及ばないと応じてきた。相当の自負を感じた。どうもその時のやりとりを、彼はいち早く思い出したのだろう。

 年を取ると、お節介を焼きたくなるようだ。言い方もエラそうに聞こえるかも知れない。TDS君が高尚な思索に耽りながら草刈りを行っている間、そんなことを考えていた、些かの反省も含めて。
 本日はこの辺で、また明日。
 
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     ’20年「夏」(45)

2020年07月23日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 きょうの雨は一向に止みそうもない。恐らく夕方まで降り続くだろう。昨日、勝手に梅雨明けだなどと呟き、そのしっぺ返しを受けたようだ。もうどうでもいい、慣れた。
 囲い罠の中にいる遅れて入牧した11頭の牛はそれほど雨を気にするふうもなく草を食んでいる。最初に来た28頭の牛たちは姿を見せないが、昨日の帰り際に頭数確認と給塩を済ませてあるから、この雨の中でも心配はしてない。牛たちも慣れただろう。
 昨日は25度まで上がった気温も、きょうは15度と低い。

 テイ沢の草刈りは明日に延期することにしたが、昨日刈り終えた北原新道の草の片付けをできれば済ませてしまいたいと思っている。それをしないと、登山者はこちらが望む場所に足を置いてくれない。つまりそれだと、道は成長してくれない。
 北原のお師匠の話では新道を作るに際し、営林署(現在の森林管理署)からは、その理由は分からないが、草を刈ることだけしか許可されなかったそうだ。そのような制約の中で始めた初期のころと比べ、大分山道らしくなってきた。さらに抜根、伐根ができれば理想だが、とてもそこまでは無理だし、それでいいと思っている。
 そもそも山へ来る人たちはわざわざ山道を荷まで背負って歩こうとする人たちである。不便を甘受するのは前提のはずで、だから快適さをあまり優先させずに、できるだけ今ある自然をそのままにしておいた方がその人たちの為にもいいだろうと思う。

 ところで、入笠山へに来る人たちは登山者なのか、それとも観光客なのか、その区別はなかなか難しい。どこかで観光と登山は一緒にはできなくなると思うが、強いて言うなら「危険」ということがその分かれ道になるのではないかと思う。そこら辺を目安にすれば、ここまでは観光の領域か、ここからは登山の領域かが判断でき、意識が変わるし、変えるべきだと思う。
 その観点からすれば、入笠の伊那側は富士見側と比べると登山の性格が強いと言えそうだ。ただその違いは、自然的な要素もあるが、そればかりではなく、そうなってしまっている面もある。これに関しての呟き方は難しい。ただそれでも、集客目的で、あまり自然に人の手を加えることには賛成しない。

 4連休で出掛ける人もいれば、自粛する人もいる。医療体制の脆弱な離島へは来ないで欲しいと島民が懇願しているのを無視して、自分が楽しめさえすればいいと声高に言う若者をTVで見た。道端に平気でゴミを捨てる輩も同類だろうか。

 雨脚は弱まりそうもない。本日はこの辺で、また明日。
 
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     ’20年「夏」(44)

2020年07月22日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨夜は雨がかなり激しく降った。きょうは「大暑」の日が射しているが、午後遅くなって雨が降ってきそうだ。まだ梅雨明けは先延ばしされているが、気象学的にはどうであれ、二日ばかり続いた怪しい夏空を見て、梅雨明けだと思うことにした。先程少しの間だけだったが、聞こえていたセミの声にしてもこれまでと違い濁音が喧しく、鳥の声もいろいろな声色、鳴き方が新に加わったようだから。
 
 きょうは午前中、北原新道の草刈りをした。昼の気温25度、この夏初めての大汗をかいた。あの高座岩に至る山道は、北原のお師匠が当時の営林署、現在の森林管理署に何度も足を運び、ようやくにして許可をえて拓いた道だということはすでに何度か呟いた。師にすれば、かつては日朝上人も通ったであろうテイ沢と高座岩を結ぶ古道が時代の流れの中で消えてしまったことを惜しみ、それを偲ばせる道を新たに残したいとの思いで奮起したのだろう。その労を思い「北原新道」と名付け、今は定着したと思う。
 日朝上人とは身延山久遠寺13世で、「芝平誌」によれば1472年に高座岩において「七日七夜の題目を唱座して道を開」いたとある。都ではすでに応仁の乱が始まっていたころの、遠い昔の口碑である。

 もう何年前かは正確に思い出せないが、その北原新道を、間伐した木材を搬出する作業道を作るため重機が横切り、無残にも新道は分断された。大分してから見かねて、近くに切り捨ててあった木材で削られた斜面に多少のことはしたが、今はそれも朽ち、踏み跡は崩落してしまった。
 師も90歳を過ぎた高齢とあってはどうするわけにもいかない。その不肖の弟子が、草を刈りながらいろいろなことを思う。新道を重機でえぐった後、せめて若干の手当はできなかったのだろうかとか、伊那市も杭を打ってあるのだから、この国有林内の北原新道の存在は認めているはずだが、その後は・・・とか。
 また、登山道は登山者によっても育てられるもので、そもそも道筋を決めるに当たってはそのことを考え、さらに、そうなるように手を入れなければいけない。とは言え、決して思うようにいくばかりではなく、お師匠だってきっと、幾度となく大きな切り株や、立木に行き当り当惑を重ねたはずだ。
 
 きょうも草を刈っていたら若い単独の登山者が登ってきた。栗立川上流の大崩落の調査には、県や市など行政にもこの道が利用されことを知っている。北原新道は、高座岩から法華道へと通ずる歴史を訪ねる道であるだけでなく、実際にも使われている、これからもだ。

 番長様、ちゃんと準備して、是非来てくだされ。Mさん、きょうはどうですか。

 本日はこの辺で、明日はTDS君の応援を得て、テイ沢の草刈りをもう少し。
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     ’20年「夏」(43)

2020年07月21日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 12日の日曜日、牧場へ上がってくる途中、荊口の集落の人々が何人も出て道路沿いの草刈りをしていた。何人と言っても精々10数人だろうか。帰る時に見たら、集落を中心に1,2キロくらいの範囲を結構刈りにくそうな場所にも草刈機を入れ、綺麗にしてあった。ご苦労が偲ばれた。
 そんな話を北原のお師匠にしたら、芝平の元住人は集団離村後も「芝平管理委員会」を立ち上げて生まれ育った集落の道路管理をずっと続けていると言い返され、結構芝平と荊口はいまだに対抗意識があるようで可笑しかったが、それはともかく、確かにそういった意味の看板が設置されているのは知っている。
 これまで、自分たちが住んでいる地域の「村作業」とか「村人足」と言われる共同作業は当たり前とされてきたことだが、人口減少と高齢化でそれも先行きが不安になってきた。またそればかりか、新たに移住してくる人の中にはこうした旧来から続いてきた慣習に従いたくない人も出てきた。伊那市は幾つかの区によって構成されているが、どこの区にも区費という制度があって、行政の手の届かない部分などにその金が利用されている。しかし、これを拒否する人もいる。
 ウサギを追い、コブナを釣った記憶のない土地に、そこで生まれて大きくなった者と同じ郷土愛を求めることは難しいかも知れない。それに、荊口にしても、芝平にしても、今の代が変わった後も、休日をさいてまで自分らが住んだことが無かったり、あるいはあってもその記憶の薄い人たちが、わざわざ山奥の集落の道路管理に汗を流しに来るだろうか。村落共同体の古き良き時代も、変わっていくような気がする。
 
 今度の新型コロナウイルスの流行を機に、大分働き方が変わりつつあるように聞いている。あの東京の炎暑の夏や、繁華街の雑踏、雨の日の混雑した通勤などあまり思い出したくないが、災い転じて福となるよう、東京の一極集中解消に取り組み、過疎化の進む老人ばかりの暮らす田舎を変えていくことは、伝説を欲する政治家にとって良い課題となりはしないだろうか。

 本日はこの辺で、また明日。かんとさん、承りました。梅雨も大分衰えてきたと思います。

 
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