ビルマのむかしばなし/中村祐子ほか訳/新読書社/1999年初版
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」のことわざどおりの昔話です。
頭のいいことを自慢していたウサギ。
道に寝そべって死んだふりをして、おばあさんがウサギを籠に入れると、籠に入っていたバナナをみんな食べてしまいます。
さらに泉に虎がいるぞと叫び、村人が泉にはしっていたすきに、バナナを食べてしまいます。
一人のおじいさんが籠を背負ってくるのをみたウサギは、おばあさんに使った手をつかいます。
ところが、おじいさんは死んだふりをしたウサギを、こん棒ではげしくたたき、焼き肉にして食べてしまいます。
うぬぼれは、ときとして命取りになることもあります。
うまくいっているときこそ、それに安住しないことが必要でしょう。
ビルマのむかしばなし/中村祐子ほか訳/新読書社/1999年初版
ある村の二人の男。
シャンソーは働くのがきらいで思いがけない幸運をあてにしています。
ブゾニューは毎日一生懸命働き、運などは信じてはいませんでした。
ブゾニューは竹を伐って高い値で売ったのでだんだん金持ちになります。
シャンソーの両親はブゾニューに見習えと、一緒に仕事にいくようにいいます。
やがて、シャンソンは不思議な水をみつけます。
透明な水を飲むと猿になり、濁った水を飲むと猿から人間にもどるという水でした。
シャンソンは、この水をつかって、王女を猿にかえることに成功します。
このあとの展開は想像の通りで、王女をもとの姿にかえ、王女と結婚することに。
怠け者と働き者が出てくると、働き者に分があるのですが、この話では逆で、怠け者が思いがけない幸運を手に入れます。
働き者は、さらに災難に見舞われ、お金は泥棒に盗まれ、家畜は死んでしまいます。
幸運にめぐまれたことはまったくないので、せめて夢のなかであっても幸せになりたいものです。
大人と子どものための世界のむかし話8 インドネシアのむかし話/松野明久・編訳/偕成社/1990年初版
おじさんのところで、森の水牛をおうしごとをしていた、みなしごドゥアンは、おばさんからいじわるをされて、おじさんの家を飛び出します。
森の中をさまよいあるいていると、おおきなイノシシにであい、眠っているすきに、イノシシの首の金のくさりを注意深くはずし、いそいで逃げ出します。
きがついたイノシシから逃れて、海へ飛び込むとイノシシはあきらめて帰っていきます。
この金のくさりをつけると、まるで浮き輪をつけているように、かるがると水にうかびます。そして海の中を歩くこともできました。
ドゥアンは大海原をすいすいおよいで旅に出ます。
海の真ん中でであった船長が不思議に思い、金のくさりを借りて試してみます。
こんな船長がでてくると、魔法のくさりを横取りするのが普通ですが、キチンとかえしてくれるあたりが、いつもの昔話とはちがいます。
やがてドゥアンが小さな島につくと、おじいさんにであいますが、おじいさんはすわって草刈りをながめているだけ。草を刈っているのは剣でした。
おじいさんが金のくさりを試してみると、からだがぷかぷかうくのでうれしくなり、持ち主の命令をなんだってきいてくれる剣と交換してくれるようドゥアンにいうと、ドゥアンは承知するのですが、すぐ旅の手段をなくしたことに気がつき、金のくさりをかえしてくれるようにいいますが、おじいさんはうんといいません。
そこで、ドゥアンは剣にがんこじいさんをたたくように命令します。
剣でたたきのめされたおじいさんが、金のくさりをかえすと、ドゥアンは剣もかえさず、逃げ出します。
やがてついた都。
天を支配している竜が、王さまの一人息子を奪いに、おりてこようとしているところでした。
まわりの人から笑われながらも、王さまのところにいくと、「竜を退治してくれるなら、国のすべてをおまえにやろう。」といいます。
こんな話の展開では、ほとんどが王さまの娘がでてきて、めでたく結ばれるというのが多いのですが、この物語では、珍しく女性がでてきません。
金のくさりで思うところにでかけられ、剣もありますからこの勝負の結果はあきらかです。
語るとなると30分はこえそうですが、男の子むけでしょうか。
いつも思うのですが外国では結構長い話が多く、昔話=口承というのは、どのようにして受け継がれてきたのか知りたいところです。
大人と子どものための世界のむかし話14 ビルマのむかし話/大野徹・編訳/偕成社/1991年初版
おばあさんが亡くなるとき、孫をよんで、兄には臼、弟には杵をのこします。
兄は臼をすぐに捨ててしまいますが、弟はいつも杵を持ち運びしていました。
ある日、弟が薪をひろいに森に出かけると、おおきなヘビがあらわれます。弟は慌てて木の上によじのぼります。するとヘビがいうことには杵を貸してほしいといいます。
この杵は、死んだ者の鼻に押し当てると生き返るとという魔法の杵でした。
弟がヘビと一緒にでかけていくと、一匹のヘビが死んでいます。しかし鼻先に杵をおしあてると、ヘビは生き返ります。
そのあと、弟は死んだ犬を生き返らせると、犬にンガポウという名前をつけます。
死んだものを生き返らせるので、弟は医者として有名になります。
あるとき王さまの姫君を生き返らせると、王さまは喜んで弟を姫君の婿にし、王子の位につけます。
この杵のおかげで、国中は死ぬ人がなくなります。
これを見た月の女神がなんとか杵を奪いとろうとします。
お日さまが照らしている時間に、月の女神がやってきて、杵を奪いとろうとしますがンガポウはにおいで女神を追いかけます。
そのときからンガポウは月をおいかけ、ときどき月に追いついてかみつきました。
すると、人々は「ンガポウが月をつかまえた」といいました。
それが月食ときです。
しかし月は犬よりはるかに大きいので、かみついても飲み込むことができません。そこでウガポウが月をはきだすと、人々は「ンガポウが月をはきだした」というのでした。これが月食のおわりです。
月食、日食などは、昔の人にとって不思議な現象であり、昔話で由来を説明するのは自然な成り行きだったのかもしれません。
この杵、もう少し活躍させてほしいところですが、死ぬ人がいなくなる世界はどんな風景でしょうか。
大人と子どものための世界のむかし話11ビルマのむかし話/大野徹・編訳/偕成社/1991年初版
4月の今、チューリップやヒヤシンスがおわり、アジサイが緑の装いをして、フジが淡く咲いています。フジは花の時期が短く、鑑賞の時期はあっという間です。
5年前、当地にきて植えたフジ、3年前はわずかでしたが、今年は何倍にもなりました。
焼き畑農業で畑を耕して暮らしていたアーセーが、豆畑をあらしている野ネズミを助けたことからはじまります。
アーセーは野ネズミを何度も助けますが、5度目にはさすがにはらをたて、檻に入れます。
野ネズミは、白いネズミを何百も殺した人間が、呪いのことばでネズミにされてしまったのでした。
命を助けられたネズミは、豆やたねのからをかじって、お役にたちたいと、せっせとアーセーの仕事を手伝うようになります。
ある日、アーセーがネズミが皮をむいてくれた豆を食べると、その豆がとてもおいしいので、ついついたくさん食べると、おならをしたくなります。
プーッとおならをすると、とてもいいにおい。野ネズミは「わたしがかじって皮をむくときに、つばがつくからですよ」といいます。
やがてアーセーの体からは、いつも香水をかけたようなあまり香りがただようようになり、このうわさをきいた王さまの宮殿にいって、おならをすると宮殿中が甘い香りにつつまれ、アーセーはたくさんの褒美をもらいます。
これを聞いた別の男が、毎日毎日豆を食べて、アーセーよりももっと良い香りのおならがでるという噂をながし、王さまの宮殿にいきますが・・・。
花咲爺さんは、枯れ木に花を咲かせますが、この話では、おならであまい香り。臭くないおならもありますが、おならのイメージを払拭するようなお話。
二人の農夫がでてくると、一方が貧乏で、一方が金持ちといった対比が普通ですが、とくにそうしたことにはふれられていません。
大人と子どものための世界のむかし話15 ベトナムのむかし話/冨田健次・編訳/偕成社/1991年初版
終わり良ければ総て良しと、途中の展開はうろおぼえでも、おわりが印象に残る話は奇妙に記憶にのこっています。
「雨をふらせたチャン・コン」は、あれっという感じで終わりますが、この終わりかたも印象に残ります。
一滴の水にもことかく村の窮状をみかねたチャン・コンという年とった男が、苦労して雨の女神のところにでかけていきます。
やっと女神のところにたどり着きますが、女神は老婆で、悪い病で一日中横になっているばかりで、雨をふらせることができません。
女神の娘もどこかにいってしまい、チャン・コンは、女神からヒョウタンに水をつめるから、ヒョウタンと枝をもって獅子の背中にのって、水をふりまくように頼まれます。
チャン・コンは雨をふらせなければならないところに、どんどん水をふりまき、やがて、命を救われた村にも水をふらせようとします。
自分を救ってくれた村人に恩返しをしようと、どっと雨をふらせると、大雨で、家も人も木もなにも流されてしまい村が消え去ってしまいます。
昔話は、ハッピーエンドで終わることが多いのですが、この話のおわりはどう受け止めたらいいでしょうか。
年とった男チャン・コン、老婆の女神と登場人物もユニークな昔話です。
チャン・コンが女神のところにでかけるとき、罠にかかったサルを助け、自分のいきたいところにつれていってくれる杖を手に入れるところがでてきますが、このサルもなぜか年とったサルです。
瘤とり娘/ベトナムの昔話/加茂徳治・深見久美子・編訳/文芸社/2003年初版
・瘤とり娘
ベトナム版瘤とり爺さんですが、でてくるのは娘です。
日本版とほぼ同じで、鬼がにぎやかに歌ったり踊っているところで歌いはじめた娘。
面白いから明日もこいといわれて、気が向いたらとこたえると、お前の大事なものをあずかっておくと、鬼は、娘の瘤をとってしまいます。
この話をきいた、やはり瘤のある長者の娘が、鬼のところにでかけていきますが・・・。
・犬と猫の恩返し
日本の「犬と猫とうろこ玉」と似ています。
日本版も比較的長いお話ですが、ベトナム版も話が次から次へと展開します。
冒頭では船で働く貧しい若者が、前払いでもらったお金で、殺されそうになった犬、猫を助けるところからはじまります。
類話には、驚かなくなってきていますが、それにしても、遠い国に同じパターンの話がありますね~。
十二人の娘/ものぐさ成功記 タイの民話/森 幹雄・編訳/筑摩書房/1980年初版
ヨーロッパの昔話では、長い話も紹介されているが、アジアのものではあまりふれることが多くなかった。
このタイの昔話にはいろいろなパターンが詰まっている。
出だしは、子どもにめぐまれない長者。
(子どもにめぐまれない夫婦という出だしは、一つのパターン)
しかし、長者がバナナを十二本頭にのせて、ほとけさまにお供えすると、長者の願いはかなえられ、なんと十二人もの女の子にめぐまれる。
子どもが多すぎて、長者は貧しくなり、娘たちを森の奥深くに置き去りにしてしまう。
(捨てられるところからはじまるのも昔話らしい)
十二人の娘たちがたどりついたのは人間を食べてしまう魔女の家。
逃げ出す娘たち。追いかける魔女。
娘たちは、はじめにゾウのはらの中に入り込み、次にウマ、ウシのおなかのなかにはいりこんでなんとか魔女から逃げ出します。
娘たちが池のそばの木によじのぼり枝に座って疲れをいやしていると、王様の命令で黄金の水がめをもったせむし娘が、水汲みにやってくる。
すると池の水が美しく光り輝く。この輝きは自分のからだから出ているにちがいないと思ったせむし娘は、美しい自分がどうして水汲みをしなくてはならないと黄金のみずがめをたたき割ってしまう。王様は銀の水がめをせむし娘にもたせるが、娘はこの銀の水がめを割ってしまう。
王様は三度目に皮の水がめを娘にもたせるが、皮の水がめはこわそうにもこわれない。せむし娘は根負けして水を汲んでひきあげようとした。
これを木の上に座ってみていた美しく目もまばゆいばかりに光り輝いている十二人の娘がこらえきれずに笑い出すと、それを見たせむし娘が、見たことを王様に報告する。
ここで十二人は王様のお妃に。
ところが面白くないのは魔女。十二人がお妃になったのをみて、美しい娘に変身して王様の妃になることに成功します。
ここで、変身した魔女は十二人を追い出そうと、仮病をつかい、この病は、十二人の目玉を取り出してくれないと治らないといい、十二人の目玉をくりぬき、洞窟に閉じ込める。
一番末の娘は、この洞窟で男の子を産み落とす。
りっぱな若者に成長した男の子は旅にでることに。
そして、無理やりさそわれた闘鶏で勝ち続け、十二袋のコメを手に入れて洞窟の母親たちのもとに運ぶ。
闘鶏の名人とうわされるようになった若者は、王様とも勝負するがここでも勝ち続ける。王様は若者にいろいろ尋ねると、自分の息子だったことにきずく。
このお話は、ここまでで半分。
目玉をとりもどすまでまだまだ長い。
天をかける馬が、森や風、火、雨、雲をよびだす魔法の薬がでてくる。
さらに手紙を持参したものを殺せと書いてある手紙の書き換えがあって、若者と魔女の娘が結婚するなど
次から次へと話が展開する。
こんなに長い話がどのようなところで、話されたのか興味があるところ。
アラビアンナイトの世界が、身近なところにもあるようです。
しかし、なぜ十二人の娘なのでしょうか。何か意味のある数字でしょうか。
死神と酒を飲んだ男/ものぐさ成功記 タイの民話/森 幹雄・編訳/筑摩書房/1980年初版
40歳で死の世界に旅立った男の生前の望みは、長男の僧侶姿をこの目でながめたいということと、棺桶の中には必ず酒を入れてほしいというもの。
生前は明けても暮れても酒、酒、酒の酒浸りだった男。
死神は、酒というのははじめて耳にすることば。
男が酒を飲み始めるといい酒のかおり。死神も酒をのんでみると、うまい!。一口一口と飲んでいると酒びんはからっぽに。
男が問わず語りに、長男の僧侶姿を見れないことが心残りだと涙を流すと、死神はあと一年だけ家族のもとにかえしてくれる。
男があの世でみたことを、家族や友人に語ってきかせると、長男は数日たって僧侶となる。
心残りがなくなった男が一年たって、死を待ち受けるが、どうしたことか死の気配がかんじられない。
おかしいと思っていると、1年、2年が過ぎ、20年たっても男はピンピン。
一方、死神は40年たってから、酒飲みの男のことを思い出す。そこで、人間の名前と死ぬ年齢をかいた記録張を取り出してみると男の死ぬ年齢は41ではなく、401年。
死神は酔っぱらって401と書き入れてしまったことを思い出す。
長男が僧侶になることが望みというのは、いかにもタイの話らしい。
死は死神と結びついて恐ろしいイメージがあるが、昔話の世界では、死神はちっとも恐ろしくなく、ユーモアがある存在。
恐ろしい死神がこうした存在に描かれるのは、じつは裏返しのことか。
死神というと長ーいカマをもったイメージが強いが・・・・、
酒がでてくるので、子どもが受け入れてくれるか少し心配なところも。
レダン山のお姫様/マレーシアの昔話/藤村祐子 タイバ・スライマン編訳/大同生命国際文化基金/2003年初版
レダン姫というのは魔法使いで、それはそれは美しい。
これを聞いたマラッカ王が結婚を申し込む。
レダン姫がだした条件というのは・・・。
お姫さまと王さまの城を結ぶ金の橋をかけること。
黄金の橋をかけることができると、今度は王子の右腕を切って、コップ1杯の血をもってきてほしいという。
悩みながらも、心を鬼にして、眠っている王子に短刀を振り上げますが、なかなかできません。
今度こそと短刀をふりあげたとき、レダン姫があらわれ、自分の欲望のため、大切な息子を殺そうとする人とは、とても結婚することはできないと、姿を消してしまいます。
慣れ親しんでいる昔話とことなって、あれっという感じで終わります。
イスラムでは複数の妻をもつことが認められているので、王子がでてくるというのは、すでに王さまは結婚していて、何番目かの妻をもとめたというのかもしれませんが、そのあたりのことはでてきません。
イスラムというと中近東というイメージですが、東南アジアでもイスラム教が根付いているということを頭において読む必要がありそうです。
金貨のつぼ/子どもに贈る昔ばなし13 桃もぎ兄弟/小澤昔ばなし研究所/2012年初版
百姓が田んぼをたがやしていると、金貨がつまったつぼがでてくる。しかし、「本当に天が金貨をくださるのなら自然におれたちの家にはいってくるさ」と思った百姓は、田んぼのあぜ道に、つぼをおいたままにする。
百姓とおかみさんがつぼの話をしていたのを聞いていたふたりの泥棒が、つぼを開けてみると、なかにはヘビがはいっていて、こわくなった泥棒は庭にそのつぼを埋めてかくす。
百姓が田んぼにいくと、つぼはなくなっていて、おかみさんは、「天からのさずかり物を大事にしなかったからあたりまえじゃないか」という。
ヘビを金貨とおもっているなんて、まったくかわいそうだと思った泥棒は、つぼを庭から掘り起こして、あぜ道にもどしておく。
翌日、百姓がつぼを見つけ、金貨をはいっているのを確認するが、またそのままあぜ道においたままにしておく。
やがて泥棒は、つぼにヘビがはいっているのを見て、このつぼを百姓の庭においておく。
百姓は「天からのさずかり物が自分から家にやってきたぜ」と喜び、その金貨で幸せに暮らします。
泥棒の役割が隣の爺さまで、ヘビが蜂になってでてくるのが日本の「天福地福」。
つぼの中身が見る者によって、金貨や蜂になるという話は、日本の昔話ではみられないと思っていたら、中国の5世紀ごろに同系の話が記録されているというから、原型は中国にありそうだ。
五分間で語れるお話/マーガレット・リード・マクドナルド 佐藤涼子・訳/星雲社/2009年初版
農夫が畑を耕していると、鍬が何か硬いものにあたり、掘り起こしてみると大きなビンがでてきます。そのビンからは驚くほどの大男が現れ、「命令された仕事はなんなりとやってのけます」と話します。
これはいいと喜んだ農夫でしたが「ご主人様がわたしに仕事を続けさせてくださらないと、ご主人さまを食べてしまわなければなりません」と言われ、次々に仕事をいいつけますが、大男はあっというまに、仕事を仕上げてしまいます。
起きている間は大男にしてもらう仕事を考え続けることができますが、眠り込んだとたん、大男は仕事をやり尽くし、農夫を食べてしまうことに。
農夫が考え付いた、大男が決して終わらせることのできない仕事とは?
どんな仕事かは、最後にあるのですが、ここで話を中断し、聞き手に、このなぞなぞの答えをだしもらったという注釈がありました。
不特定の人が対象のお話し会では難しいが、学校、保育園、幼稚園、学童クラブなどでは、先生と子どもたちとの日常的なふれあいがあり、お話を語ったあとで、その答えを考えてもらう対話型のお話もありかなと思いました。
牙の生えた王様の話/レダン山のお姫様/アジアの現代文芸 マレーシア/藤村裕子訳/大同生命国際文化基金/2003年初版
ある日、王さまが食べた料理があまりにもおいしかったのは、料理人があやまって指を切り、その血が料理にはいってしまったからというもの。
それからは、王さまは、囚人の血を入れた料理を食べるようになります。それとともに、王さまの犬歯は、日に日に大きく長くなります。
やがて血を採られていた囚人がいなくなって、普通の人々からも血を採る方法しかなくなって、大臣たちが相談し、王さまを追放しようとします。
やがて、王さまと大臣たちの戦がはじまりますが、民衆は残酷な王さまを見捨てます。
すこしびっくりするような話で、読むだけにしたい話です。
三人兄弟/子どもに語るアジアの昔話Ⅰ/松岡享子・訳/こぐま社/1997年初版
三人の兄弟がでてくる話には二つのパターンがあって、その一つは上のほうから順番に出かけていって、末っ子がうまく問題?を解決するというもの。上の二人に比べてぱっとしない末っ子が活躍するのがみそ。
もう一つは、三人が同時に旅に出て、三つに分かれた道で各々が別れ、旅をするもの。
後者は兄弟間の優劣はあまりでてこなくて、一旦別れた兄弟が再開し、三人が協力して何かを成し遂げる。
個人的には兄弟が協力するという話のほうに魅かれる。
そして面白いのは、三人姉妹がでてくる話では、姉妹が協力してことにあたるという話に出会ったことがないということ。この違いはどこからくるのか?
フィリピンの「三人兄弟」というのは、教訓を含んだ後者の話。
百姓仕事より、いっぺんに大もうけしたい思っていた三人兄弟が、母親から「自分の運をさがしておいで」といわれ旅にでます。三人は7年目におなじ場所で落ち合うことにします。
一番上は、ガラス工場で働いて立派なガラスづくりのわざを身につけ、2番目は腕の良い船大工になりますが、末っ子は泥棒の名人になります。
三人兄弟が家に帰ってから、美しい王女が魔法使いにさらわれ、無事に王女を連れ戻した者は、王女と結婚し王子の位もあたえられるというおふれがだされます。
三人はおのおのが身につけた技をつかって王女を助け出すことに成功します。
三人兄弟の誰が王女と結婚するのか結末が気になるところですが、結婚のかわりに、国の半分の土地をもらい、それを三人で平等にわけることになります。
この手の話で泥棒の名人になるというのが日本の昔話にもあって、泥棒もかかせない役割をもっているのが楽しい。
ビルマのむかしばなし/中村祐子他訳/新読書社/1999年初版
ネットで検索してもでてこないのはめずらしいが、ドラゴンナガというのが登場します。
「ドラゴン王女と三つの卵」の中では、王女の親として出てきます。この王女は太陽の神様と結婚し、三つの卵を産むが、一つ目の卵からはルビーが、二つ目からは虎が、そして三つ目からはワニがでてくるという話。
「ハシバミ鳥」では、海の支配者として現れ、ライオンと力比べをして勝ち、ライオンをむさぼり食うことになるが、大ベータ鳥があらわれ、ドラゴンは深い海に逃げるという話。
「ウサギの鼻はなぜ動く?」では、いい気持ちで寝ていたドラゴンが「おれさまを起こす奴は誰だ」とキュウリや猪、蛇、鴨、ゴマ、かぼちゃ、ウサギを問い詰めます。
「シャパルダー」では、うそつきのシャパルダーを川底から救いだし、空を飛ぶ象までプレゼントするという役割。
「モンポクチャン」では、王女の恋人として出てきますが、主人公からあっさりと殺されてしまうという役どころ。
つかみどころがない存在ですが、多くの昔話にでてくるのをみると、ミャンマーの昔話では、存在感のある登場人物?でしょうか。
ミャンマーの絵本をみるともう少しイメージがわくかも知れません。